「父が誰か、知りたい」「日本で父の墓参りをしたいのに手掛かりが何もない」……。日本から遠く離れたオランダで、そんな思いを抱き続ける日系人たちがいる。70代以上のお年寄りばかりで、多くは高齢になってから「父は日本人」という出生の秘密を知った。なぜ、そんな日系人たちがいるのか。オランダと日本、その高齢者たちが生まれたインドネシア。第2次世界大戦に起因する彼らの過酷な人生を追った。(文・写真:奥山美由紀)
(文中敬称略)
67歳で初めて知った自分の“秘密”
オランダのアーネム市はライン川沿いの美しい街だ。そこで暮らすフレッド(75)は、あの手紙を読んだときの衝撃を今も忘れない。差出人は、隣町に住む叔母のアマリア。実母が他界し、何年か過ぎた2012年のことだ。
便箋にはこんなことが書かれていた。
「あなたは『ナカノ』という日本軍人の子です。戦時中、生活に困って、あなたのお母さんは日本軍人が出入りする飲食店で働いていました。そこで『ナカノ』と親しくなり、あなたが生まれた。お母さんは死ぬまで事実を秘密にしていたから、今まで私もあなたに伝えられなかったけれど」
フレッドは当時67歳。その年齢になって初めて、自らの出生の秘密を知ったのである。手紙には「もしあなたが軍服を着たら、『ナカノ』にそっくりでしょうね」とも書かれていた。
フレッドは「弟や妹に比べて、変わった子、醜い子と感じながら育ちました」と明かす。違和感の正体は分からず、家に居づらい。15歳で商船の厨房スタッフになって世界中を回った。横浜や神戸など日本への寄港経験もある。「日本ではなぜか、心地よさを感じました」とも語る。その理由も叔母からの手紙で分かった気がした。
日本人を父とする高齢の「日系オランダ人」は、フレッドだけではない。その数は約800人とも千人単位とも言われる。
1941年、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まると、日本はフィリピンやマレーシアなどだけでなく、オランダの植民地だったインドネシア(当時の呼び名は「オランダ領東インド」「蘭印」)も攻撃して占領した。
敗戦までの約3年半、ジャワやスマトラなどの島々には、日本の軍人や軍属、民間人など約30万人が駐留した。大半は男性であり、現地のインドネシア系オランダ人女性との間に、多くの子どもが生まれた。
戦争が終わると、日本人は日本に引き揚げた。連合国軍総司令部(GHQ)の指令などにより、日本に戻れるのは軍人や軍属らの「日本人」だけであり、インドネシアの女性や子どもを連れていくことは基本的にできない。
日本の支配を脱したインドネシアは、再びオランダの植民地になった。そして今度はオランダ相手の独立戦争が始まる。インドネシアでは殺戮と混乱が続き、それまでの地位や財産を奪われる者も続出。そうした事態から逃れるため、残された女性や子どもらは、見たこともない「本国・オランダ」に向かった。フレッドと母も、その中にいたのである。
67歳にして「自分は日本人の子」と知ったフレッドは、その年、戦時中の史料を調べているオランダの団体に実父の調査を依頼した。しかし、手元に詳しい情報がほとんどなく、調査は進まない。日本の国立公文書館で公開されている日本の軍人・軍属名簿では58人もの「ナカノ」が見つかったが、それ以上、調査は進まなかった。
フレッドには厳しい「父」がいた。その「父」が養父だったことも、あの叔母の手紙で知った。養父は母と同じインドネシア系オランダ人。戦時中は日本軍の捕虜だったという。
フレッドは言った。
「実父が見つかることはないでしょう。もう諦めています。それでも写真は見たい。墓参りもしたい。父はどんな人物だったのか……どうしても知りたいんです」
実父が見つかった人も
実父を探し当てた日系オランダ人も、わずかにいる。エドワード(74)はその一人だ。2003年、57歳のときに母からこう聞かされたという。
「あなたの本当の父は戦時中、ジャワ島のチルボンにいた日本人です。名前は『ムラカミ』。私は彼のいる事務所で働いていた。でも、『ムラカミ』を探すのは私が死ぬまで待ってほしい」
衝撃だった。オランダでは、ナチス・ドイツと日本は「敵国」。ドイツ人や日本人が父親だと分かると、子どもたちは戦後しばらく、「ナチスの子」「日本の子」といじめられた。母親は「敵と関係した女」などと後ろ指をさされた。
そうした事態から逃れようと、多くの母親は事実を隠し、長い間、胸にしまい込んでいく。それでも「いつか真実を伝えよう」と考えていたのか、死が近づくにつれ、出生の秘密を打ち明けるケースが増えてきた。1990年代後半ごろからである。
戦後60年近くたって事実を明かしたエドワードの母親は、その2年後に他界した。そこからエドワードの父親探しは本格化する。元読売新聞記者の内山馨(96)、その尽力を引き継いだオランダの支援団体などによる長期の調査は続き、父親の親族の所在が判明したのだ。
エドワードは2016 年、東京で異母弟との対面を果たした。東京都内にある実父の墓にも足を運び、「もう存在しない」と聞かされていた亡き父の写真も2枚受け取った。ただ、異母妹は「関わりたくない」として、面談もかなわなかった。そして、この訪日を最後に親族との交流は途切れてしまった。
帰国後、エドワードの心中は複雑だった。彼は長兄で、11人の妹と弟がいる。実のきょうだいと信じて疑わなかったが、エドワードだけ父親が異なる。50歳を過ぎて本当の父親探しに没頭していく中で、弟や妹たちとはぎくしゃくした。
エドワードは最近、がんや膝の手術をした。体調は芳しくない。自らの事業だったバンガロー公園の経営も、子どもたちに任せた。声も弱々しくなってきた。
この7月、エドワードはこんなことを語った。
「(東京では)もっと腹を割って弟と話したかったんです。でも、父の墓参りの後、喫茶店で短時間会話しただけでした。彼は自分と同じ不動産の仕事をしている。もう一度会えば、きっと打ち解けると思う。彼は旅好きで毎年アメリカなどに行くと言っていたから、きっとオランダも気に入ってくれる。私のバンガロー公園やこの広々した田舎の景色をぜひ見てもらいたい」
「私はお父さんに抱っこされてない」
オランダ東部に住むテレーゼは74歳という高齢になった今も、フランス語とインドネシア語の現役教師だ。オランダには姉のマリーも住んでいる。
17歳の頃、母から「あなたの父親は日本人」という事実を聞き出したテレーゼは、前出の内山やオランダの支援団体などに父親探しを依頼し、次第に事実が判明した。実父の姓は「モリ」。佐賀県の出身だったという。インドネシアに駐留する前は日本で家庭を築き、息子が1人いた。その息子は戦死。「モリ」はテレーゼが生まれる前、敗戦で日本へ復員したという。「モリ」には直系の子孫がテレーゼとマリーしかいないことも分かった。
テレーゼ姉妹は2017年、日本で「モリ」の兄の子どもである「ハルノ」ら親族と会うことができ、実父の写真も手にした。しかし、1961年に他界していた父の実像を知るには、時が経ちすぎていた。高齢だった日本の従姉妹は昨年死去。オランダの支援団体からの照会に快く応じていた遠い親戚も、2年前に急逝した。
テレーゼは言う。
「復員後のお父さんの近くで数年間暮らし、父のことを知っているハルノさんも昨年亡くなってしまって……。(父の故郷が佐賀県なので)私は九州まで行って、お父さんのお墓を探したこともあるんです。でも見つからなかった。父の遺骨がどこに納められたかは分からないままです。親族との面会は実現しましたが、今でも、父の墓参りの夢をなんとか叶えたいと思っているんです」
「姉のマリーは赤ちゃんの時、お父さんに抱っこされているんです。でも、私にはそれがない。お父さんは、私がおなかにいる時にインドネシアを去りました。『ケイコ』という名前を残してくれましたが、私を見たこともないんです」
だから、なんとしても墓参りして、自分の姿を父に見せたいのだという。
「誰でもいい、父を覚えている人に会いたい」
テレーゼ姉妹やエドワードのように、実父の足跡をつかめた日系オランダ人は多くない。さらに、実際に会えたとなると数人しかいない。多くの「日本人の子」は、わずかな手掛かりを頼りに、父や親族の写真を集めたり、かつての様子を伝え聞いたりしながら、父の“実像”を想像するしかない。
そんな一人、ロブ(74)の心情は複雑だ。
幼いころから「何かおかしい、何か秘密があると感じていました」と言う。母親の“望んでいなかった関係”から自分が生まれたと知ったのは、44歳のときだった。実父は日本人の警察官。母が身ごもっていることも知らぬまま、日本に復員した。
「自分は望まれていなかった」
それを母に教えられたロブは、深い自己喪失感に陥り、一時は自死も考えた。それでも父を探そうとした。家族の歴史を知ることで、心も安定するのではないかと考えたからだ。父の姓は「カワバタ」。オランダ国立公文書館で、日本軍の電話帳から「警察官カワバタ」も見つかった。
しかし、そこで調査は止まった。支援団体からの照会に対し、日本の親族から音信がなかったからだ。親族らは大きな衝撃を受けたのかもしれない。インドネシアから復員した男性たちは、日本に戻って「南洋の楽園」での真実を語ったとは限らない。子どもをつくったという自覚がない人もいる。
「誰でもいい。父のことを覚えている親族に会い、お墓参りしたい。父の見ていた風景を自分の目でも見てみたいんです」
そんなロブの願いは、なかなか実現しそうにない。
支援団体「彼らの心の整理を手伝うしか……」
日本人の父を探し続ける、年老いたオランダの子どもたち。そうした人々の一端をさらに写真で紹介しよう。子どもたちは概ね75 歳前後になり、父親探しはますます難航している。
前出の内山は70組の調査を手掛け、23組の父を特定した。それを引き継いだオランダの「アジア太平洋戦争 日本関連史資料および学術連絡支援財団」(SOO)によると、内山の調査以後、40組から調査や面会の依頼を受け、このうち6組が日本の親族にたどり着き、6組は今も日本側親族との接触を試みている。そのほかは情報が少なく、親族へたどり着く可能性は低い。また、ここ数年で依頼者3人が亡くなった。
SOOの中心メンバーで、オランダ在住の葉子・ハュス-綿貫(61)は、そうしたオランダ人たちと苦楽を共にしてきた。
「親族が見つかることが難しそうな日系人たちに、何ができるのか。それは、彼ら彼女らの心の整理を手伝うことだと思います。父の国である日本とその歴史、そして日本への日系人の理解を深めることです」
※本人の希望などにより、日系オランダ人はファーストネームで表記しています。
※特設サイト
未来に残す 戦争の記憶
奥山美由紀(おくやま・みゆき)
山形県生まれ、オランダ在住。主に日系オランダ人やフィリピン残留日本人を取材。2016年、イタリア・コルトーナの写真祭で写真集がグランプリを受賞。2019年、スイス・ルガーノで写真賞を受賞。www.miyukiokuyama.com
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝