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長谷川美祈

「父の暴力で弟は死んだ」「義父からの性被害」……虐待されて育った私たち

2019/11/26(火) 08:25 配信

オリジナル

さまざまな事情により、家庭で暮らすことができない子どもを、保護者に代わって社会が養育・保護する仕組みを「社会的養護」という。そうした子どもたちは、児童相談所を経て、里親家庭や児童養護施設などで暮らし、多くは18歳で退所して社会に出る。では、その後の彼ら彼女らは、どんな道を歩んでいるのだろうか。簡単には表現できない困難を抱え、それでも生きていく当事者たち。困難な家庭で育った日々は「虐待」とも切り離せない。当事者3人に密着して取材を続けた。(文・写真:長谷川美祈/Yahoo!ニュース 特集編集部)

浴槽に、顔の腫れ上がった弟の姿が

橋本隆生さんの場合

橋本隆生さん(41)は、父と継母から虐待されて育ったという。

隆生さんと弟のたかしさんが幼かった頃、実母は2人を連れて家を出た。数カ月後、父からの電話で3人は公園に呼び出される。噴水の前で父は母を蹴り倒し、馬乗りになって、暴力を続けた。母はその場から逃げるように走り去った。

その後、両親は離婚し、隆生さん兄弟は父と暮らし始めた。

「父の暴力のターゲットは僕たちになりました。お尻を叩かれるとかではなく、激しい暴力でした。いつもおびえていました」

橋本隆生さん=2015年11月、関東地方で

事件は、隆生さん5歳、たかしさん3歳の頃に起きた。

たかしさんが夕食のコンビニ弁当を残し、ゴミ箱に捨てた。父は激怒。たかしさんへの暴力が始まった。「ごめんなさい」と泣きわめくたかしさんを父は風呂場へ連れて行く。しばらくして、泣き声はやんだ。

「僕は、風呂場へ行くことができませんでした。巻き添えを食うと思ったからです。父は居間に戻ってきて『さっさと飯を食え!』と怒鳴りました。食べ終わると、『たかしを連れてこい』と言われ、急いで風呂場へ向かいました」

当時、このアパートに住んでいた

浴槽のふたがしまっていて、その上に洗濯かごなどが載っていた。

「そっとふたを開けました。お湯の張られた浴槽に、顔の腫れ上がった弟の姿がありました。父は救急車を呼び、救急隊員が人工呼吸をしましたが、目を覚ますことはありませんでした。父は逮捕されず、事故死となりました。このときの弟の姿と救急車の音は忘れられません」

隆生さんが小学2年生の頃、父は再婚し、継母からの暴力も始まった。

「殴る、蹴る。真冬に全裸で外に閉め出されたり、アイロンを体につけられたり、食事を与えてもらえなかったり。あらゆる暴言も吐かれました。邪魔、死ね、なんで生きているの? 存在そのものが否定されるような言葉です。義弟が生まれましたが、義弟に触ることは禁じられました」

継母との写真。隆生さんは、幼少時の写真を数枚しか持っていない。これはその1枚。隆生さんの希望により、継母の顔を白く切り抜いた。「存在しなかったことにしたい、他の誰かに代えることもできる」からだ(提供:橋本隆生さん)

隆生さんは何度も家出した。

食べ物を手に入れるため、恐喝や盗みを働き、ボウリング場や公園の遊具の中で寝泊まりした。補導され、児童相談所の一時保護所に入っては、数週間で自宅へ戻される。何回もそのサイクルを繰り返したという。

隆生さんが野宿した公園の遊具。たくさんの落書きが今もある

隆生さんの回想を続ける。

「あざだらけの顔で学校に行っても、先生は何もしてくれませんでした。家に居たくないから、いつも誰かの家に遊びに行くんですけど、友達にも暴力的な態度を取っていましたから、相手の親が嫌がるんですよね。明らかに追い出そうとするんです。児童相談所で『父の暴力で弟は死んだ』と何度言っても、取り合ってくれませんでした」

表面に出てくる隆生さんのSOSは「困った子ども」と解釈され、彼は大人から「問題児」として扱われた。

継母らと一緒に暮らしたアパート(撮影:長谷川美祈)

「家に戻されるくらいなら、人を殺してくる」

中学2年のとき、隆生さんはそれまで相手にされなかった児相を振り向かせた。「家に戻されるくらいなら、これから人を殺してくる」と職員に言って引かず、やっと児童養護施設に入った。

15歳で退所し、全寮制の高校に働きながら通った。

「施設って、かわいがられる子と放っておかれる子に分かれるんですよ。放っておかれる子は、施設でも居場所がない。当時、施設で育った子は、中卒で働くのが主流でした。でもね、中卒にできる仕事なんてたいしてないんです。雑用ばかり。続かないで辞めちゃった子たちは、ろくな人生を送っていないかもしれない。実際、僕と同じ施設出身の何人かは死んでいますからね。事件に巻き込まれて殺されたり。珍しい話じゃないです。そういうことは知られていないし、知らせる人もいない」

父が、隆生さんを殴る際に使っていた警棒。先がわずかに曲がっている。隆生さんはこれを持って家出した

高校卒業後、アルバイト先を20回以上も変えた。

「施設で教育を受けたわけでもない。何も知らない状態で、自分だけの力で、“社会の普通”に合わせなきゃいけない。難しくないですか? これが現実ですよ。無気力になってしまう。どうしようもないですよ。仕事などでいやなことがあったら、逃げるか、キレるか。その繰り返しです。助けを求めるったって、その方法さえ知りませんでした」

疎外感や不安感が常につきまとっていた。必死にもがいていた。

隆生さんは自殺も考えた。そのとき、この風景を見ていた=栃木県

27歳のとき、バンドサークルでドラムを担当するようになった。それが隆生さんを変え始めた。

「すごく居心地がよくて、楽しくて。この仲間と遊べるように、仕事でもなんでも、我慢しよう、って。妻ともそこで出会った。あのときの仲間が、本当に支えてくれました。救ってもらえた」

「演奏を褒められたり、拍手されたり。必要としてくれるんですよ。『隆さんのドラムでお願いしたい』とか。自分を必要としてくれる、されるというのは、こういうことなんだな、って」

そして家族を持った。いま、2児の父である。

昨年、虐待当事者グループ『internaReberty PROJECT(インタナリバティ・プロジェクト)』を結成。隆生さんは講演やワークショップを続けている

35年ぶり、実母に会う

隆生さんは昨年、実母を捜しだし、35年ぶりに会った。実母の話によって、隆生さんの記憶と事実は点から線になっていく。

実母は再婚せず、飲食店を経営しながら一人で暮らしていた。

「父の金遣いが荒く、苦労したそうです。3人目の子がおなかにいた寒い日、母は生活費を工面するため、親戚中を回っていて流産した。あなたには本当は妹がいたのよ、って教えてくれました。それがきっかけで、母は僕たちを連れて父の元から逃げたんですね。親戚のところで生活していたんですけど、ある日、家庭裁判所から出頭命令が来たそうです。父が訴えたんでしょう。出頭したら、女手ひとつで育てられるわけないと一方的に僕たちを父に引き渡すことが決まったそうです」

その引き渡しが、あの公園の日だったのだ。

弟・たかしさんの写真は一枚も持っていなかったが、実母に再会してこの写真を手にした。左が隆生さん、右がたかしさん

実母にはその後、何回も会った。

「この間、やっと撮ったんですよ」とスマホの写真を見せてくれた。実母の店で、実母とよく似た男女が数人、そしてにこやかな隆生さん。実母のきょうだいたちと一緒の写真だった。

「似ているんですよね。笑っちゃいますよね。写真見て、キモって思いました」と言いながらうれしそうだ。

長い取材の中で、隆生さんは自身の子育てについて語ったことがある。

「甘えたことがなく育ってきたので、子どもが妻に甘えていたりすると、イラッとするんですよ。でも、自分の家庭がおかしかったんだ、それと同じに考えちゃいけない、って言い聞かせています。そういえば、最近、そういうことないですね。甘えることがどういうことか分かってきたからかな。40歳過ぎて甘えることもないですけど」

実母が走り去った公園。その姿を見送って35年間、実母に会うことはなかった

「施設の内側」で起きたこと

五百部久美子さんの場合

五百部(いおべ)久美子さんは小学2年の頃、両親が帰ってこなくなった。1万円札だけが家に置かれていたという。電気、水道、ガスを止められた。学校に行けなくなり、小学校の教頭先生がときどき、給食の残りのパンを持ってきてくれた。

「近所のおばさんがご飯を食べさせてくれもしました。『泊まっていいよ』と言ってくれるけど、(両親が)きょうは帰ってくるかもしれないと思って、いつも真っ暗な家に帰っていました。私が悪い子だから両親は帰ってこないんだと思っていました」

両親が家に居るときは、おなかを蹴られたり、突き飛ばされたりした。父の友人には、よく胸や性器を触られたという。

五百部久美子さん。8歳の頃から18歳まで児童養護施設で暮らした

誰かが通告したのか、児相の職員が家に来た。だが、すぐに帰った。2度目に職員が来たときも、そのまま帰ろうとする。久美子さんは必死で追いかけた。

「こんな所には居られません、どうにかしてください」と訴え、一時保護所に保護された。そして両親に会うこともなく、児童養護施設へ。

「養護施設では施設長が暴力を振るっていました。いやなことを忘れられると思っていたのに、結局、暴力があった。ここでもか、という感じでした。虐待を受けて、また虐待を受けるのです。物置に閉じ込められたり、蹴飛ばされたり。施設長のお気に入りの子はお菓子をもらえたけど、私はもらえません。そうやって差別は出てくるんだと思いました」

子どもの頃の久美子さん

ひどいことはまだ続いた。

「高校生になると、施設では個室になりました。部屋に入られて鍵を閉められたら、誰にも気付いてもらえません。押し倒されて処女を奪われました。何も抵抗できなかった」

「それは施設を出るまで続きました。誰にも言えないし、誰も気付いてくれませんでした。悔しくてつらかったです」

児童養護施設の職員との交換日記

「心の中のお父さんが消えない」

18歳で退所し、施設の先輩と同棲を始めた。今度は、その彼からDVを受けるようになる。おびえ、相手の顔色をうかがい、眠れなくなった。病院でうつとPTSD、パニック障害、適応障害と診断されたという。

当時の久美子さんの日記。そこによく出てくるフレーズがある。

「夕方になるとさみしい気持ちになってきて、おとうさんが映像として出てきた。私をくるしめて、ものすごくこわい。おこる。ごめんねと私はあやまる。心の中のおとうさんが消えない。くるしい」

久美子さんの日記。DVに関しては全く記されておらず、彼に申し訳ないという記述が多い

その後、久美子さんは、障がい者のための福祉作業所に通うようになり、そこで児童養護施設出身の菊池清子さんと仲良くなった。彼から逃げた久美子さんは今、生活保護を受けながら清子さんと暮らしている。

「小学1年の頃、母は『あなたを産まなければよかった』と言いました。この言葉が今もつらいです。それなら、最初から産まなければよかったのに。ずいぶん安定してきましたが、普通に暮らしていても子どもの頃の記憶がよみがえることがあります」

そうなると、過呼吸になり、けいれんし、体が硬直してしまう。数年前に精神病院に1カ月ほど入院し、けいれんすることはなくなった。それでも、今もパニックになることがあるという。

家族連れの多い場所では記憶がよみがえり、パニックを起こすことがあった

久美子さんが過ごした児童養護施設の近隣では、住宅の窓にぬいぐるみが並んでいた

「怖くて体が動かなかった」

漫画家カナンさんの場合

ヤマダカナンさんの母には常に恋人がいた。

「母と2人で暮らした期間は小1からの2年間くらいしかないです。でも、何十人、家に男を連れてきたか。酒、タバコ、ギャンブル、浮気、暴力。ろくでもない男ばかりでした。男に頼らないと食べていけないと母は言っていましたが、男性依存症だと私は思っていました」

ヤマダカナンさん。漫画家

母は、よく恋人に殴られていたという。カナンさんを置いて逃げたこともある。玄関の窓ガラスが割れたり、母が何度も警察を呼んだり。カナンさんにとって、そうした記憶は心の大きな傷だ。

「小さい声で『やめて』くらいは言ったかもしれない。泣いていた記憶はある。怖くて。フリーズしますね。警察沙汰になっていたから、本当に恥ずかしかった。近所の人はどう思っているんだろう、って」

恋人の暴力で家を飛び出した母を捜し、カナンさんは夜の公園をさまよった

8歳の頃、母は再婚した。優しかった義父もやがて、機嫌が悪いとカナンさんを怒り、口答えすると殴るようになった。母と義父のセックスを何度も目撃した。

「10歳の頃、母のいない夜、義父が部屋へ入ってきました。寝ている私にのしかかり、胸を触り、キスをしました。『親子やねんし、これくらいええやろ』と。怖くて体が動かなかった。唇の感触も気持ち悪くて。それ以来、義父は私の体を触ってくるようになりました」

母に言えたのは、1年後だった。少しずつ伝えていたつもりだが、気付いてくれなかったという。

「義父が触ってくる、とはっきり言いました。母には私を選んでほしかった。母はすぐに私を連れて、家を出てくれました。でも、数日後、母の妊娠が分かり、義父の元へ戻ることになりました」

カナンさんのアルバム。筆者に対し、カナンさんも親の顔を白く切り抜くことに同意した

親になり「過去」と向き合う

中学生になると、「祖父母宅で暮らしたい」と言い、家を出た。あの性被害以降、潔癖症になり、耳鳴りや悪夢に悩まされた。学校の先生に気に掛けてもらったり、児相が関わったりすることは全くなかったという。こうして、カナンさんは社会的養護の網からこぼれ落ちたままになった。

夢だった漫画家になり、23歳で上京。結婚し、2人の子どもに恵まれた。

ところが、子育てを続ける中で、乗り越えたと思っていた「過去」と再び向き合うことになる。

「子どもを産むこと、育てること、そして母になるのが怖かった。母のような母になってしまうことが怖かった。悩んだまま出産して、半年くらいまでは殺さないように育てている感じでした」

カナンさんのコミックエッセー『母になるのがおそろしい』(KADOKAWA)。自らの虐待の経験や生い立ちを描いた

出産後、夫は育児休暇を取り、2人目の出産時には時短勤務を選んだ。精いっぱいのサポートである。同時にそれは、勤務先の出世コースから外れる要因にもなったという。夫は情緒不安定になり、転職し、そして引っ越し。その頃から、夫によるカナンさんへの暴力が頻繁になった。カナンさんもやり返し、殴り合いになったこともある。

この頃、カナンさん自身も子どもに手をあげてしまった。

「本当に後悔した。親に育てられた育て方しかできないんです。それしか知らないから。でも、それだけだと、自分のような子になっちゃうと思いました。叩いたときって、カッとしていて何も考えていないんです。そして後悔です。結局は自分の思い通りにさせたいという親の都合なんですよね」

カナンさんはそれ以降、「絶対、子どもに手をあげない」と誓った。

カナンさんも『internaReberty PROJECT』のメンバー

その後のある日、家族でドライブ中、運転していた夫が子どもに対し、激しい暴言や暴力を向けたことがある。停車すると、カナンさんは「それはしつけじゃない!支配だ!」と怒鳴った。何人もが遠巻きに見ていた。

カナンさんは夫に「すぐにDV治療に通ってほしい。通わないと離婚する」と訴えた。DV治療の勉強会には夫婦で参加し、今年4月から夫は治療を開始。暴力が始まってから4年、DV治療に通うように勧めてから2年は経っていた。いま、夫の暴力は影を潜め、カナンさんとの会話も増えたという。

子どもたちと遊ぶカナンさんの夫

一方、カナンさんは今も月に数回、子どもたちに暴言を吐くことがある。

「子どもがワーッとなって、手が付けられなくなったときに怒鳴っちゃう。でも、暴言の内容をすぐ忘れてしまうので、この間、メモったんです。そしたら『お母さん、もうお母さんをやめたい!』って言ってました」

このままではいけないと、カナンさんは、適切な養育を学ぶプログラムに通い始めた。子どもたちに向かって、これ以上、暴言を吐くわけにはいかないからだ。夫もDV治療を頑張っている。

以前、カナンさん夫妻がけんかを始めると、次男は大泣きした。長男は道化になって、へらへら笑いながら和ませようとしていた。

「それはもう、本当にかわいそうな姿でした。二度とそんなことはさせたくない。子どもには自分のような生きづらさを抱えてほしくないです」

「以前は月1回のペースで悪夢を見ていました。目が覚めると泣いていて、15分くらいで『なんで泣いていたんだっけ?』となる。追いかけられる夢だと思っていたけど、母親を捜している夢かもしれないと最近気付きました」


長谷川美祈(はせがわ・みき)
1973年生まれ。昭和女子大学卒。設計士として働いた後、写真家に。2019年、児童虐待をテーマにした写真集『Internal Notebook』をイタリアの出版社から日英併記で刊行。ペルーで写真集の賞を受賞。日本では子どもや女性の社会問題をテーマに撮影している。
https://www.miki-hasegawa.com/

[写真監修]
リマインダーズ・プロジェクト:後藤勝

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