リゾート地として日本人らに人気が高いサイパンやパラオなどの南洋諸島。これら常夏の島々は、明治期以降、沖縄県などから多くの人が移民政策のもとで移り住んだ。戦前、日本の委任統治領だった時期もあるが、第2次世界大戦時、戦局の悪化で米軍に襲われた。生き残った人たちも家族や家を失った。その戦争被害者が国に補償と謝罪を求める訴訟を起こしている。原告らの多くは80歳以上。東京空襲など、これまで続いてきた戦後補償裁判で最後の訴訟とみられている。南洋戦を生き抜いた人たちの闘いを追った。(文・毎日新聞記者・栗原俊雄/写真・豊里友行、塩田亮吾/編集 Yahoo!ニュース 特集編集部)
常夏の島で戦争に巻き込まれた沖縄出身者たち
今年3月7日、福岡高裁那覇支部。大久保正道裁判長が判決文を読み上げた。
「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人らの負担とする」
第2次世界大戦で被害を受けた民間人が、国に補償と謝罪を求めた裁判の控訴審。法の下の平等と人権回復を求めた原告たちの訴えは、10秒足らずで退けられた。
「軍人は補償されたが、民間人は受忍しろという。差別だ。全ての戦争被害者が救われる法律を作ってほしい」
沖縄県那覇市在住で原告団長の柳田虎一郎さん(81)はそう話した。
訴えていたのは、当時日本が統治していた南洋諸島、すなわちサイパンやパラオ、さらに戦時下で日本が占領していたフィリピンなどで戦禍に遭った40人。沖縄出身者か両親が沖縄出身の人が多かった。
第1次世界大戦で戦勝国となった日本は、南洋諸島を国際連盟の委任統治という形で得た。当時の日本にとって南洋諸島は「海の生命線」。安全保障上の重要地だった。
明治以降、日本から海外への移民が進んだ。沖縄県からの移民は特に多く、5万人以上が南洋諸島とフィリピンに渡っていたとされる。事実上の植民地を強固なものにしようとする国策があった。
南洋戦訴訟の原告の証言から、現地での生活ぶりを振り返ってみたい。
沖縄県うるま市の祖堅秀子さん(81)の父は大正時代の終わりごろ、勝連村(現うるま市)からサイパンに渡った。島最大の街、ガラパンで暮らした。家族を呼び寄せ、妻と農業を営んだ。両親と3男4女の大家族。三女の祖堅さんはサイパンで生まれた。
「常夏で過ごしやすかったですよ。食料も豊富でした。家で作った野菜と現地の魚を物々交換して。『ああ今日もお刺身が食べられる』と、楽しみでした」
同県恩納村在住の大城スミ子さん(84)もサイパンで生まれた。農業を営む両親と姉、弟3人の7人家族。
「生活は安定していました。夜、家で現地の国民学校(現在の小学校)で習った唱歌を歌うと、父が三線(さんしん)で伴奏してくれるのがうれしかった」
原告団長の柳田さんは静岡市生まれ。父の転勤に伴い1940年ごろパラオのガスパン州に渡った。「静岡はにぎやかだったけれど、パラオは静かで、いいところに来たと思いました」と振り返る。3人の姉妹がいた。
1941年12月8日、大日本帝国による真珠湾への奇襲で始まった米英など連合国軍との戦争は、当初こそ日本軍が戦果を上げた。しかし次第に劣勢となり、米軍は南洋諸島にも迫った。
開戦、移民たちの苦難
南洋諸島で戦時色が濃くなったのは1943年夏ごろだ。サイパンで暮らしていた祖堅さんは「警防団の人が『空襲警報発令!』と言って、訓練が始まりました」と言う。
増員された日本軍の兵士を収容するために、大城さんが通っていた国民学校も使われた。
「山の中で勉強しました。空襲警報が頻繁に鳴るようになり、そのたびに防空壕に避難して、勉強どころではなくなっていきました」
1944年6月15日、米軍がサイパンに上陸。祖堅さん家族の逃避行が始まった。まず家の近くの山に避難した。「ああ、家が燃える」と母が叫んだ。父は飛行場建設に駆り出されて不在だった。母と子どもたちは、砲爆撃を避けるべく大きな自然壕(洞窟)に入った。祖堅さんが述懐する。
「別の家族にいた3、4歳の男の子が泣きました。壕にいた日本兵が『この子のためにみんなが犠牲になる』と言って、その子の首を絞めようとしました。その子の父親が『自分でやる』と、子どもを連れていきました」
祖堅さんは当時5歳、四女は2つ下だった。母は子どもたちを連れて外に出た。昼間は密林にじっと隠れ、夜は壕を求めて歩いた。山の中で父と再会した。三男の兄は友だちから水のある場所を聞き、やかんを持って出ていったが、水くみの途中、爆撃で死んだ。「見に行けば自分たちもやられるかもしれない」と、弔うこともできなかった。
さらに密林の中で母に銃弾が当たり、長姉も足を負傷。母は「爆撃がある。逃げてもいいよ。逃げるならば何か掛けて」と話した。父が布袋を掛けた。
「母が欲しがった水をあげるのが精いっぱいでした。逃げないと自分たちがやられると思い、その場を離れました」
生き残った父と4姉妹はサイパン島の北端、マッピ岬に追い詰められた。日本人の多くが投身自殺したことから、「バンザイクリフ」として知られる。父はより安全そうな壕をみつけ、四女の妹、ついで次女の姉をその壕に連れていき、そのまま行方不明になった。その後、祖堅さんと長姉は米軍に収容された。はぐれていた兄夫婦とは収容所で再会できたが、海軍軍人となっていた次兄は戦死していた。平和で豊かだった暮らしは遠くなった。「戦争さえなければ、と思います」。祖堅さんはそう振り返る。
大城さんもサイパンで逃避行をしていた。最初に父が空襲で倒れ、家族はバラバラになった。ある壕の入り口付近が爆撃され、母も死んだ。
「怖くて何もできませんでした。ただ震えていました」
やがて米兵が来てトラックに乗せられた。だが姉と弟3人は収容所には来なかった。
「みんな亡くなってしまったのだと知りました。楽しかった日々を思い出し、泣いてばかりいました」
原告団長の柳田さんのいたパラオ・ガスパン州では米軍の空襲が激化したため、母と姉、柳田さん(当時6歳)と妹2人は日本に引き揚げることになった。父は徴兵され島に残った。柳田さんたちが乗った軍艦は米潜水艦の雷撃で沈没した。母はおしめの布を裂いて、軍用の浮袋に子ども4人をくくりつけた。母はこの時、臨月だった。その体で子どもたちをまとめて、救助を待った。「母が助けてくれなければ、いまの私はいません」と柳田さんは話す。
家族は救命ボートに救助された。軍人と民間人が乗ったボートはフィリピンのミンダナオ島にたどりついた。
「米軍は、動くものはなんでも撃ってきました。食べ物? 木の根やカエル、ミミズ、昆虫、食べられるものは何でも食べました。泥まで食べました」
母は米軍機の機銃掃射で負傷。それでも次女と三女の手を引き、さらに荷物を背負い、子どもたちを励ました。そんな中で男児を出産した。母は「男の子ならば啄勇(たくお)」と紙に書いて持っており、「啄勇を頼むね……」と言うと永遠に目をつぶった。啄勇は一度も母乳を飲むことなく、その4日後に死亡した。
敗戦後、投降の呼び掛けに応じて柳田さんたちは助かった。しかし、三女は逃避行中にかかった病気が治らず、「アーベン(お母さん)の所に行く」と言い残し、日本への引き揚げ船の中で旅立った。3歳だった。
戦後・沖縄での日々
南洋諸島から引き揚げてきた人たちの生活は苦しかった。
柳田さんは、姉と妹とともに1945年10月、神奈川県の横須賀港に上陸。役人が検査をした際、母に託された布袋を没収された。「現金や預金通帳、印鑑、子どもたちのへその緒などが入っていました」。1年ほど孤児院で暮らした。パラオで徴兵された父は、顔にやけどを負った状態で帰ってきた。
「どうしてそうなったのか、父は話しませんでした。私も戦争での詳しいことは家族にほとんど話していません。難儀したことは言いたくありませんから」
柳田さんは資格を取り、電気技師として身を立てた。
祖堅さんは沖縄の長兄の家に身を寄せた。
「姪をおぶって学校に通いました」。高校卒業後、米軍基地で働き、さらに防衛施設庁(当時)職員となった。結婚し、子どもが生まれた。見た目には平穏な生活になっても「戦争が頭から離れることはありませんでした。あるとき、子どもにおっぱいをあげながらうたた寝していたら、ラジオドラマで『空襲警報発令!』と聞こえて、家から飛び出しました」。
大城さんは沖縄の親戚に引き取られた。「慣れてきたな、と思ったら別の親戚に引き取られました」。さみしかったが、「今思えば、みんな生活が苦しかったから。みんなで育ててくれたのでしょうね」と振り返る。米軍の弾薬工場で働いた。
柳田さんと祖堅さん、大城さんの3人は、近年になるまで補償運動に関わっていなかった。その3人が国を訴える裁判に加わったのは、瑞慶山(ずけやま)茂弁護士(76)の活動を知ったことがきっかけだった。
軍人・軍属は補償60兆円、民間人はゼロ円の差別
第2次世界大戦では、日本人およそ310万人が死んだ(厚生労働省の推計)。うち230万人が軍人・軍属(軍に雇用された民間人)であり、80万人が非軍属の民間人だ。
日本政府はこれまで、元軍人や軍属とその遺族に対し、恩給や遺族年金など計60兆円もの補償や援護をしてきた。一方、民間人にはしていない。国の言い分は「民間人は国と雇用関係がなかったから」だ。
為政者たちが始めた戦争で被害に遭った、という点では軍人も民間人も同じだ。「差別」と感じた民間人たちは1960年代以降、国の補償を求める裁判を始めた。しかし、東京空襲、大阪空襲などの訴訟では、ことごとく敗訴となった。大きな壁になったのが「戦争被害受忍論」、すなわち「戦争では国民全体が何らかの被害に遭った。だから国民全体で耐えなければならない」という論理だ。
だが、南洋戦訴訟の弁護団長、瑞慶山さんはこれらの判決について「元軍人・軍属は補償されており、『国民全体で受忍すべき』という理屈は破綻している。人権を救済するという司法の役割を放棄した」と批判する。
東京空襲の弁護団に加わっていた瑞慶山さんは、自身も南洋戦の被害者である。
両親は沖縄出身でパラオ諸島のコロールへ渡り、瑞慶山さんはそこで生まれた。1944年、米軍の空襲を避けるため船に乗った。だが米軍の攻撃で沈没、1歳の瑞慶山さんは母の胸に抱かれて海を漂いながら助かった。3歳の姉は水死した。
戦後、一家は沖縄で暮らした。瑞慶山さんは地元の琉球大学を卒業し、法曹界に。戦争被害者としての法廷闘争までには時間がかかった。きっかけは、2006年に東京空襲の訴訟で原告弁護団に加わったことだ。被害を調べるうちにルーツである沖縄での戦い、そして、沖縄出身者が南洋で体験した戦争被害に目を向けた。体験者たちの聞き取りを重ねた。2012年、瑞慶山さんが弁護団長となり、まず沖縄戦の被害者や遺族79人が、国に1人当たり1100万円と謝罪を求めて那覇地裁に提訴した。
宙に浮いた戦争被害
そして沖縄戦被害者による提訴の翌年、2013年8月15日には南洋戦の被害者45人が、国に損害賠償と謝罪を求めて那覇地裁に提訴した。瑞慶山さんら弁護団が前面に出して主張したのは、沖縄戦訴訟と同じく不法行為責任だ。民間人が多数犠牲になった日本軍の戦闘行為や「集団自決」の強制などは国民保護義務に違反するものであり、軍の雇用者である政府に補償する責任がある、というものだ。
瑞慶山さんによれば、南洋戦の訴訟は沖縄戦以上に困難だった。「まず資料が少ない」。また長い間、原告らは家族にさえ悲惨な体験を詳しく語ってこなかった。
祖堅さんは新聞記事で瑞慶山さんの活動を知った。「国に逆らうわけにはいかない」というためらいを「あんなに恐ろしいことが二度と起きてはいけない。黙っているわけにはいかない」と思いで乗り越え、つらい体験を話した。
大城さんも新聞記事で知った。それまで他人に戦争体験を話すことはなかったが、「みんなが『戦争はたいへんだよ』と思わないと」と、参加を決めた。
瑞慶山さんは資料の掘り起こしと分析、さらに被害者の聞き取りを進めた。裁判所に提出した膨大な証言は、それ自体歴史研究への貴重な資料となった。提訴当時、原告らの平均年齢は80歳以上、最高齢者は102歳だった。
「無念のうちに南海に散った人びとの霊を弔い、自らの人間回復のため、人生“最後”の思いを込めてこの裁判を起こしました」
瑞慶山さんはそう話す。
弁護団の方針で、南洋戦原告団のうち30人が精神科医・蟻塚亮二さんの診察を受けた。その結果、実に28人が南洋戦の戦時・戦場体験に起因する心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断され、証拠として裁判所に提出された。同種の診断書は南洋戦訴訟に先立つ沖縄戦訴訟でも提出された。戦後70年近くたっても戦争被害が続いていることを医学的に証明するためだ。
原告団長の柳田さんは、今も戦争中の夢を見る。「ジャングルのような山中でドンという砲撃の音。そんな夢で目を覚まし、妹や母のことを思い出します。飛行機の音を聞くと、急に動悸がします」。祖堅さんは「サイパンでの戦争中のことや沖縄に引き揚げてきてからの孤児として苦しくつらい生活の記憶が昼も夜も思い出されて、心臓がどきどきしたり咳き込んだりします」と話す。2人ともPTSDと診断された。
戦争被害者に立法による救済を
南洋戦国賠訴訟は2018年1月23日、那覇地裁で原告敗訴の判決が下された。判決で剱持淳子裁判長は、原告たちの戦争被害、戦争によるPTSDも認定した。米軍の攻撃のほか、日本軍による壕からの追い出し、自決の促しなど、原告らの被害に関わる加害行為も認めた。その上で原告たちが国に対して軍人・軍属たちと同様に、民間人被害者も援護をすべき義務があると主張していることについて「心情的には理解でき、政策的観点からはそのような見解も十分にあり得る」などとした。にもかかわらず、賠償の請求自体は棄却した。
なぜ原告の訴えを認めないのか。それは「国家無答責」の法理による。
明治憲法下にあった戦時中の行為には、1947年施行の国家賠償法は適用されないという理屈により、「民法の不法行為を根拠に、現行憲法施行前の行為について国に賠償や謝罪を求めることはできない」とした。前述の沖縄戦訴訟でもそうだったが、戦後補償裁判でしばしば使われてきた法理だった。
南洋戦訴訟の原告団のうち40人は福岡高裁那覇支部に控訴したが、冒頭でみたように敗訴した。それもまた「国家無答責」の法理だった。
東京大空襲やシベリア抑留など、これまでの戦後補償裁判はすべて原告の敗訴だ。それでも、少なからぬ判決が「軍人・軍属と差別されている」という原告の心情に理解を示し、立法による解決を促した。しかし同支部の判決は、立法による救済を促さず、被害者の心情を思いやることもなかった。
原告団22人は、最高裁に上告した。今秋にも判断が下される。柳田さんは言う。
「戦争では一番弱い人が一番苦労する。その一番弱い人たちで国は成り立っている。そのことを政府は知らない。我々の被害を認めながら、国が補償しなくてもいい、というのはおかしい。人間としての心がほしい」
瑞慶山さんも言う。
「PTSDのように、戦争体験者の被害は日本国憲法下の現代まで続いている。それを明治憲法下の理屈、国家無答責で退けるのは、亡霊のような判決。原告たちの年齢からして、おそらくは当事者による最後の戦後補償裁判となる。戦争被害は生命、財産、精神などに対する侵害。踏みにじられた人権を救済するという、司法の役割が問われている」
栗原俊雄
1967年生まれ。東京都出身。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、同大学大学院政治学研究科修士課程修了(日本政治史)。1996年、毎日新聞社入社。横浜支局などを経て、現在、毎日新聞東京本社学芸部。2018年、第24回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞受賞。著書に『戦後補償裁判』『シベリア抑留 最後の帰還者』『特攻 戦争と日本人』など多数。
[写真]
豊里友行
塩田亮吾
[図版]
ラチカ