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幸田大地

今の日本には「バカ」が足りていない―― “笑点の黄色い人”林家木久扇が貫くバカ道

2019/06/13(木) 08:00 配信

オリジナル

落語の世界で、いや日本中で、林家木久扇さん(81)ほど「バカ」という修飾語が似合う人はいないだろう。思いがけず落語の世界に入って58年、『笑点』の黄色い人として今年で50年。「私は落語の世界の呼び込み役」と語る。どんな信念と作戦で「バカ」を貫いているのか。木久扇師匠がマジメに語る「バカの力」「バカの効能」は、令和を生きる私たちに、何を教えてくれるのだろうか。(ライター:石原壮一郎/撮影:幸田大地/Yahoo!ニュース 特集編集部)

落語家ではなく漫画家を目指していた

おかげさまで、林家木久扇といえば「バカ」というイメージが定着してくれています。「バカ」という言葉にはけなす意味もありますけど、「バカウマ」とか「今日はバカに調子がいい」といったプラスの意味もありますよね。本当にバカだったら言われるのは嫌ですけど、自分ではそうじゃないつもりなので、ぜんぜん気になりません。でも、バカのふりは一生懸命やり続けます。そのほうが儲かりますから。

舞台に登場するだけで、客席から笑いが起きる。田中角栄や大平正芳といった宰相の声色も織り込みつつの一席に、観客はおなかの底から笑い、心からの拍手を送った

地方の営業でも、司会から紹介されておもむろに登場するんじゃなくて、客席を通って、お客さんと握手したりおじいちゃんの肩なんか触ったりしながら出ていく。そうすると一気に雰囲気が温かくなります。噺(はなし)のマクラも「いやー、いきなり暑くなりましたよね」なんて世間話から始める。時間稼ぎという一面もありますけど、「いま」あったこと、「いま」お互いに感じていることを話すのが、生きた落語だと思うんですよね。

林家木久扇さんは、落語以外でも才能を発揮してきた。落語家になる前からプロの漫画家として活躍し、日本漫画家協会に所属。自身の俳号「とよ田三茶」は、俳句の世界では知られた存在だ。ビジネスでもセンスを発揮し、「木久蔵ラーメン」をヒット商品に育て上げた。

――漫画家から落語家というのは、異色の経歴です。

落語に憧れて、子どもの頃から落語家を目指してたってわけじゃないんです。(漫画家の)清水崑先生の書生にしてもらって、いつも書生部屋で絵を描きながら(映画俳優の)嵐寛寿郎さんや長谷川一夫さんの声色をやってたら、ふすまの向こうでそれを聞いていた先生が、「漫画家で絵が面白いのは当たり前だが、本人も面白いやつはなかなかいない。おまえはその才能を生かしたほうがいい」って、親交があった三代目の桂三木助師匠を紹介して下さったんです。

漫画家として失格と言われたわけじゃないので、素直に「それも面白そうだな」と思いました。先生は、どっちも生かせる道を考えてくださったようです。実際、落語をやりながら漫画や絵の仕事もやらせてもらってきましたから。仮に漫画だけの道に進んでいたら、ピークがあったとしてもせいぜい3年で、80歳まで仕事を続けていることはなかったでしょうね。落語の道に進ませてくださって、清水先生には本当に感謝しています。

2018年夏に出た『誌とファンタジー』(かまくら春秋社)の別冊『まるごと林家木久扇』では、10の古典落語を題材に、名だたる詩人が詩を詠んで自らが漫画を描く新しい表現にチャレンジした

ところが、半年もしないうちに三木助師匠が病気でお亡くなりになって、今度は八代目・林家正蔵(のちの林家彦六)師匠にお世話になりました。「木久蔵」の名前をいただいたのはそのときです。本格的に落語の修業が始まって、こんな面白い芸はないと思いました。自分ひとりでいろんな世界を作り出して、お客さんを楽しませることができるんですから。

『笑点』で問題を忘れるのは、長く映る「作戦」

国民的長寿番組『笑点』(日本テレビ系)のレギュラーメンバーになったのは、二ツ目だった32歳のとき。出演は今年で50年を数え、桂歌丸さん亡きあとは、メンバーの中で最古参、最長老となった。

――『笑点』では問題を聞き直したり、座布団を催促して立ち上がったり……。レギュラーメンバーでは最長老ながら、かなり自由に振る舞っています。

あれはね、「作戦」なんです。「えーっと、何だっけ?」と聞き返したら、それだけ長くテレビに映っていられる。勝手に立ち上がるのも、その間は映してもらえるから。ただし、左右に動いちゃダメなんです。カメラが追ってくれない。最近は隣の林家三平さんの答えをけなすパターンもあるんですけど、三平さんに「どう反応すれば見る人に喜んでもらえて、長く映れるか、意識したほうがいいよ」って言ってるんです。

1978年に発売したレコード『いやんばか~ん』は、10万枚を超えるヒットに。メロディーはジャズの名曲『セントルイス・ブルース』の二小節。同年春に行なわれた『笑点』のアメリカ・サンフランシスコ公演時に初披露した

『笑点』は、私の人生と切っても切り離せない大きな存在ですね。自分自身も落語という芸能も、『笑点』がなかったらどうなっていたことか。あの大喜利は、当初は長屋の設定だったんです。司会者が大家さんで、キザな若旦那や田舎から来た権助がいて、私はバカな与太郎の役割でした。だから、いきなり歌い出したり声色を混ぜたりしても許された。ところが、それがウケるもんだから、みんながちょっとずつ与太郎みたいなことをやるようになっちゃった。

「権助」も「与太郎」も、江戸落語でおなじみの登場人物。「権助」は、地方から上京してきたキャラクター。「与太郎」は、ぼんやりしたキャラクターで「愚か者」の代名詞。

その前から高座でも、与太郎っぽいキャラクターでしたね。古典落語はあくまで「公式」で、私はその「応用問題」をやってきました。古典ってちょっと抹香(まっこう)臭いですよね。なんか堅いし。噺の中で、映画「忠臣蔵」の大石内蔵助風に「おのおのがた」みたいな長谷川一夫さんの声色を入れると、正蔵師匠に注意されました。「おまえなあ、落語は話芸なんだから」って。でも「お客さんは面白いほうがいいはずだ」と思って、抵抗してやり続けてました。師匠は、注意はしても本気で怒ってたわけじゃない。もっと厳しくて融通の利かない師匠だったら、破門になってたかもしれません。

1982年に死去した正蔵師匠の人となりを伝える「彦六伝」は得意演目のひとつ。「師匠のことを多くの人に覚えておいてほしくて。でも、その噺で仕事をいただくこともあり、お亡くなりになってからも師匠の世話になっています。ありがたいですね」

――『笑点』では与太郎の役割。落語界の中では自分の役割をどう考えていますか。

「名人上手と呼ばれて人間国宝を目指そう」とか、そういう気持ちにはなりませんでしたね。私たちの世代はちょっと先輩に初代・古今亭志ん朝さんがいて、同期に十代目・柳家小三治さんがいる。古典落語の伝統を守り伝えるのは、その人たちに任せておけばいい。目指す方向は違っても、お互いに落語という池で泳いでいるのは同じ。いろんな魚がいたほうが、池が活性化しますから。私は落語の世界の「呼び込み役」だと思ってます。「こっちにおいでよ。落語って面白いよ」って人を集める。落語のすごさや深い魅力を知ってもらうのも、まずはきっかけがないと始まりません。

戦争で人間の残酷さ、命のはかなさを知った

若い頃から剣道をたしなむ。「バカを見せて笑ってもらうのは、剣道で言うと隙を見つけて攻めるみたいなもの。簡単じゃないけど、笑いが決まったときは気持ちいい」

1937年、東京・日本橋の雑貨問屋の息子として生まれた。比較的裕福だった生活は、空襲ですべてを焼かれて一変する。戦後すぐの苦しさが、いまの芸風につながっていると木久扇さんは語る。

「いっぱい楽しんでほしい」と思い続けているのは、戦争で怖い目に遭ったことも関係している気がします。空襲警報が鳴るとおばあさんの手を引いて防空壕に逃げるんです。東京大空襲のときはまだ私は小学校1年生でした。近所の人も友達もたくさん亡くなって、生まれ育った町は全部燃えちゃいました。戦争って、なんて残酷なんだろう。命って、なんてはかないんだろう。そんな体験があるから、とにかく笑ってもらいたいという気持ちが強いのかもしれませんね。

林家木久扇さんが落語界の「王道」から外れているのは、芸風だけではない。「落語家は貧乏でもいい」「落語家がお金にこだわるのはよくない」という“美学”に、真っ向から異を唱えている。仕事の依頼があると最初にギャラの話をするのがポリシーであり、おなじみの「木久蔵ラーメン」をはじめさまざまなビジネスを手がけてきた。

戦争ですべて失って、子どもの頃からいろんな仕事をしてきました。新聞配達をしたり、映画館でアイスキャンディを売ったり。実家が雑貨問屋で夜になると父と番頭さんが毎日お金を数えてたから、お金を稼ぐのが一人前の大人だという思いもある。でも、がめつくはないつもりです。ものをもらってもすぐ人にあげちゃって、うちのカミさんに「誰に何をいただいたかわからなくなるでしょ。お礼言わなきゃいけないんだから!」って怒られちゃう。

現在、弟子が11人(真打ち6人、二ツ目4人、前座1人)。寄席や落語会では、自らロビーに出て「木久蔵ラーメン」を手売りする。「道に向けてガラスに押し当てて、ほらほらって指さすとウケるんですよね。お客さんとあれこれお話しできるのも楽しいですし」

落語には貧乏話がたくさんありますけど、本当に貧乏暮らしをしていそうな落語家が「たくあんは尻尾のところがオツで」なんて話をしたら、物悲しくて聞いてられません。本当はそれなりにステーキとかいいもの食べてるんだろうけど、高座では貧乏をリアルに語るのが芸だし、カッコいいと思う。インタビューで「ライバルは?」と聞かれたら、「先月の売り上げ」と答えています。一番好きな言葉は「入金」ですね。

お金へのこだわりを話しても、ユーモラスでほのぼのした印象を受けるのは、人柄のなせる業である。本当は貧乏ではないのに貧乏を語るのが芸であるのと同じように、バカではないのにバカを演じるのも、磨き上げた芸にほかならない。

バカは楽しいですよ。「あの人はバカだから」と思われたら、誰にも恨まれないし、みなさん仲良くしてくれます。ちょっとぐらい失敗しても「しょうがないなあ」で済んじゃう。「バカの力」は人間関係を円滑にしてくれます。ただ、人を傷付けるようなことを平気で言っちゃう「本物のバカ」には、なっちゃダメです。バカにされたくないとムキになるのも、かなり困った種類のバカですね。いや、私に言われてたら世話ないですけど。

これまでに2度、落語を聴いた人から「死ぬつもりだったんですけど、木久蔵さんの落語で大笑いしたら悩んでいるのがバカらしくなって、死ぬのをやめました」という手紙をもらったことがあるという。「噺家やっててよかったなと思いました」

今の日本には「バカ」が足りていない

最近はなんだか窮屈な世の中になっていますよね。「生きづらさ」なんて言葉もよく目にします。電車に乗っていても、若い人がつまらなそうな顔をしてる。生きているのは面白いことのはずなのに、もったいないですよね。みなさん、バカが足りないんじゃないでしょうか。そりゃあ毎日いろんなことがありますけど、いちいちまともに受け止める必要はない。柳に風で、そよそよ吹かれてればいいんです。悩みや苦しみのほとんどは、考えてもどうにもならないことや、どっちでもいいことなんですから。

戦後の民主主義教育って、いい面もいっぱいあるけど、「みんな平等です」と教えたのはあんまりよくないですね。人間は平等ではありません。与えられた環境は人それぞれだし、得意不得意もある。人と同じものを欲しがるから、手に入らなくて腹が立ったり引け目を感じたりするんです。バカの得意技は、あんまり考えずにまず動き出しちゃうこと。自分にできることを見つけて、自分で人生を切り開いていく面白さを感じてほしいですね。与えてもらおう、正解を教えてもらおうと思っていても、楽しい人生にはなりません。

40代で重度の腸閉塞、62歳のときには胃がんで胃の3分の2を切除、そして5年前には76歳で喉頭がんを患った。「空襲も入れて、4回死にそうになりました。今こうやって生きて落語をしゃべっているのは奇跡みたいなもんです」

――昭和、平成と世の中を明るく盛り上げた林家木久扇さんが、令和の時代に持ち越した「宿題」はなんでしょうか。

落語家として、バカとして、たくさんの人に笑ってもらえた人生に悔いはありません。まだまだ元気ですから、令和ではバカの普及と育成に力を入れたいと思っています。

そのためにもやりたいのは、落語のアニメを作ること。落語はライブの芸だから、その場で消えちゃう。でも、今は映像で残すことができる。落語には昔から、小道具を使って盛り上げる芝居噺という手法がありました。今の技術と組み合わせた新しい形の落語があってもいいはずです。そういうのも、言葉遊びと絵を描くことの両方ができる自分の役割かなと思って。

アニメになれば、世界中に落語を広めることができます。矢が飛んできて「やあねえ」なんてのをアニメで表現できたら、小さな子どもたちもきっと飛びついてくれる。子どもの頃から落語に親しめば、人間に対する優しいまなざしみたいなものを覚えてくれて、丸みがあるっていうか、トゲトゲしない大人になってくれそうです。それこそ、バカのふりができるようになる。そういう大人を増やしたいですね。

近ごろは、世の中がどんどん進歩して、なんだか人間の情感が置いてけぼりになっているように感じます。パソコンやスマホに振り回されているし、リニアモーターカーで東京から名古屋に30分ぐらい早く着いたところで、それがいったい何なんだってことですよ。ゆっくり立ち止まって、日常生活の中で面白いものを発見する力を取り戻したり、鷹揚に生きる幸せを思い出したりしたほうがいい。そうなるために、令和の日本では「バカ」がもっと広まってほしいですね。いや、みんながみんな私みたいになっちゃったら、日本の国も困りますけど。

林家木久扇(はやしや・きくおう)
1937(昭和12)年、東京・日本橋生まれ。落語家。東京大空襲により生まれ育った自宅が焼失。56年に漫画家・清水崑氏の書生となる。氏の紹介で60年に三代目・桂三木助に入門。61年に桂三木助が死去し、八代目・林家正蔵門下に移り、林家木久蔵となる。65年、二ツ目昇進。69年から日本テレビ系『笑点』のレギュラーメンバーとなる。73年、真打ち昇進。82年、「全国ラーメン党」を結成。2007年、木久蔵の名を息子のきくおに譲り、林家木久扇となる。近著に『林家木久扇 バカの天才まくら集』(竹書房文庫)がある。


石原壮一郎(いしはら・そういちろう)
1963年、三重県生まれ。コラムニスト。月刊誌の編集者を経て、1993年に『大人養成講座』でデビュー。以来、『大人力検定』『大人の言葉の選び方』『大人の人間関係』など、大人をテーマにした著書多数。相手をリラックスさせつつ果敢に踏み込み、本音や魅力を引き出すインタビュー術にも定評がある。趣味は、スマホに頼らず知らない街を徘徊すること。

撮影:幸田大地
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝