「ほほ笑みの国」タイでは長年、強権政治を続ける軍部と民主化を求める人々が激しくぶつかり合ってきた。今年3月に行われた総選挙の結果は、新たな出発点になるのだろうか。日本人旅行客は年間160万人、日系の進出企業も5000社以上。日本と深い関係を持つタイの人々は何を考えて一票を投じたのだろうか。戦車や銃を挟んで同じ国民が対峙してきたこの十数年。長きにわたる混乱のなかで、国民が何を望んでいたかを取材した。(文・写真:後藤勝/Yahoo!ニュース 特集編集部)
反軍政の人たち その思いはどこに
2000年代に入って混乱が増したタイでは、タクシン元首相の路線を支持する勢力と、軍政支持の反タクシン派が激しく争っている。タクシン派は選挙に強く、タクシン派政権ができるたびに、軍事クーデターなどの実力行使で反対派が巻き返すという図式が続く。
では、普通の国民はどんな思いで、それぞれの勢力を支持しているのだろうか。今年3月に行われた総選挙の前後、首都バンコクや周辺を歩き、人々の声に耳を傾けた。まずは「タクシン支持派」から。
宝くじを売るヌーさんとクライさんは、バンコクのスラムで暮らしている。
「支持するのはタクシン派政党です。私たちのように、貧しい人のための政党だと感じるから。他の政党は金持ちばかりが集まっています。私たちは毎日、食べていくのが精いっぱい。多くのことは望まないけど、子どもたちには将来苦労をさせたくありません」
スラムで食堂を営むポムさんとサムレイさん。2人はタクシン派支持だ。貧しい人たちのことを考えてくれるからだという。
「タクシン派政党を応援しています。他党と比べて、私たちのことをよく考えてくれる。そしてタクシン派だけに、何か希望が見えるんです。欲を言えば、もう少し生活を良くしたい。私たちは、ただ一生懸命毎日働いて、寝るだけですが」
軍政支持者「この安定を続けて」
強権的な軍事政権を支持する国民もいる。バンコク市内で出版社に勤務するタワチャーイさんは、その一人だ。
「かれこれ10年以上も暴動が繰り返され、タイの経済はむちゃくちゃになりました。(前回2014年の)軍事クーデターからの5年間は、治安が良くなり、何の心配もなくなった。かつて暴動では、たくさんの人が死にました。この安定した状態が続いてほしい」
市内のクリニックで働く女性の心理学者、ボラナンさんも軍政を支持していると明かす。
「軍事政権はとても良い行いをしています。デモも起きないし、以前のようにタイ人同士が殺し合うこともなくなりました。もう、騒ぎは十分。安定があるからこそ、仕事も順調に続く。規制など多少厳しいかもしれないけど、今の軍事政権に感謝しているんです」
北部のチェンマイでは、農業を営む3人、アリーさんとモンさん、トンさんに取材した。3人とも軍政支持である。
「今の軍事政権を応援しているんです。毎月、この地域に援助をしてくれているから。王室と共にあり、一番安定した政権だと思う。安定した政権が続くことが一番いい。田舎では、1人あたり1カ月の生活費は5000バーツ(約1万7500円)ほど。ぜいたくはできないけど、食べていけます」
今の軍政を支持する人たちは、そろって「安定」「暴動のない暮らし」を口にした。通常なら支持されそうもない強権政治。それに対する支持が一定の広がりを見せる背景には、長く続いた混乱と衝突がある。
転換点の一つは2010年だった。当時の写真と取材メモをひもときながら、バンコクが「戦場」になった同年5月19日の早朝にあなたをお連れしよう。
2010年、首都バンコクが「戦場」に
機関銃を撃ちながら、装甲車は前に進んでいた。兵士が一列になり、かがみながらそれに続く。バリケードの向こうからも銃声が響き、横にいた若い兵士が小刻みに震えているのが見えた。「パイ、パイ!(進め、進め!)」と後ろの兵士が叫ぶ。
この日の早朝、タイ国軍はバンコク中心部のルンピニ公園で、タクシン元首相派のデモ隊を前に「掃討作戦」を開始した。
装甲車がバリケードを壊し、その隙間から兵士が公園に突入する。人の気配はないが、銃声は途切れない。数十メートル先の道端に、デモ参加者とみられる遺体が2体あった。重装備の兵士たちは、M16ライフルを撃ちながらさらに前進していく。
このとき、バリケードの内側にいたのは、反独裁民主統一戦線(UDD、通称・赤服軍団)に参加する人々だった。その規模、数万人。当時はタクシン元首相派の政権が憲法裁判所の判断で解体され、総選挙を経ずにアピシット政権が発足したばかりだった。
UDDはこれに反発。これに対し、政府はバンコクに非常事態宣言を出し、4万7000人の国軍兵士を投入してデモ隊の鎮圧を続けていた。
同胞を攻撃する軍に対し、デモ隊は抵抗を続けた。
積み重なったタイヤを燃やし、周りに黒煙が立ち込める。視界が遮られるなか、兵士が「あの公衆トイレにスナイパーがいる」と叫んだ。地方で徴兵されたのだろう、まだあどけない顔をした兵士たちが、無言で銃を連射する。
その先に見えたデモ参加者は、肩に自動小銃をぶら下げ、駆け抜けた。中年の国軍兵士は手榴弾を握り締め、黒煙の中に消えた。数分後に「ズドン!」という爆発音が聞こえ、新たな黒煙が上がった。
デモ隊側でも悲惨な出来事が続いていた。
負傷者が次々と前線から運ばれ、さらにバイクで後方に運ぶ。すでに死亡している者もいた。デモ参加者も一部が武装し、拳銃や自動小銃で応戦する。
私の目の前で、横にいたイタリア人カメラマンが倒れ込んだ。体から大量の血が流れている。ぐったりした体を持ち上げ、他の記者たちと運んだが、即死のようだった。流れ弾か、狙われたのか。真相は今も分かっていない。
そうした中でも、装甲車の轟音が少しずつ近づいてきた。デモ隊は少しずつ後退した。
若い女性の遺体を見た地元のジャーナリストはデモ隊の鎮圧後、「根本的な問題は何も解決していない。タイ人同士が殺し合っただけだ」と吐き捨てた。
当局の発表によると、2カ月に及ぶ衝突で死者は90人以上、負傷者は約2000人に達した。犠牲になったのは、デモの参加者だけではない。ボランティアの医療スタッフ、現場に駆け付けた警察官・消防隊員、ジャーナリスト、カメラマンなども死傷。デモ隊ではない市民も犠牲になっている。
国際的な人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは翌2011年に報告書を公表し、この衝突では、軍による「狙撃手の配置」「過剰な暴力」によって犠牲者が増えたと指摘した。さらに衝突から5年後にも「歴代の政権は一切軍関係者を訴追していない」「命令を下した司令官も実際に群衆に引き金をひいた兵士も野放しだ」と批判している。
2001年のタクシン首相誕生後、「国の分裂」
1990年代までタイでは「王党派」が政治の実権を握っていた。王党派とは、王室の権威と政治的関わりを重視する軍人や官僚、都市中間層などを指す。
様相が大きく変わったのは、2000年代になってからだ。通信事業で成功した富豪のタクシン氏率いる勢力が、農村への援助や公共投資によって農民や貧困層から絶大な支持を得た。下院選で勝利して2001年に首相になり、2005年の2期目も連勝した。
王党派は危機感を募らせ、反タクシン派の民主党を支持した。しかし、選挙では敗退に次ぐ敗退。やがて、大規模な「反タクシンデモ」、タクシン政権を「違憲」とする訴訟、軍事クーデターといった手段を次々と使っていく。
不正選挙批判、汚職や職権乱用、下院解散・総選挙、選挙無効の憲法裁判所判決、軍事クーデター……。タイの混乱を物語るキーワードは引きも切らない。そして2000年代後半からは、選挙や議会だけでなく、親タクシン派(赤服)と反タクシン派(黄服)は街頭でも衝突するようになる。
「国の分裂」ともいえる状態だった。
結局、「国の分裂」は終わらないまま、今日に至った。
2007年に民政移管のために下院選が行われると、選挙に強いタクシン派政党が勝利し、政権を握った。すると、反タクシン派は首相府や空港などを占拠。その後も混乱は続き、タクシン派政権は瓦解していく。
こうした「選挙でタクシン派勝利」「反タクシン派が大規模な反政府行動などで政権の転覆を図る」という繰り返しは、長く続いた。
若者たち「古い政治は要らない」
今年3月の総選挙では、実は「タクシン派」でも「反タクシン派」でもない新党「新未来党」が下院定数500のうち80議席を獲得し、第3党になった。
現地の報道などによれば、支持者の多くは若者で、不正や利権にまみれたタクシン派政権、軍事クーデターを繰り返す王党派、そのどちらにも「愛想が尽きた」という理由で投票した人が多かったという。さらに、軍事クーデター防止、不敬罪の改正などを掲げて軍政に立ち向かう姿勢が共感を呼んだとされる。
アーティストとして活動するニキさんは「もう古い政治は要らない。タイには民主主義が必要」と考え、新未来党の候補に一票を投じた。
「クーデターや汚職、軍隊はもう十分です。汚職疑惑まみれだったタクシン派のやり方も疑問。それに、タイ人はもっと自由に発言し、行動したいと思っているんです。それらを縛るルールはもう要りません」
バンコクでメディア会社を経営するタナチャートさんは、軍政に反対だという。でも、タクシン派にも期待していない。
「新未来党に投票しました。新しい政府が必要なんです。私は外国で学んだ経験があり、民主主義を理解しています。今の軍事政権は、言論を規制して力でねじ伏せている。私たち若者には納得できません。いつか、本当の民主主義がタイに訪れてほしい」
「暗黒の5月事件」を語り継ぐわけ
タイ外国人記者クラブ代表のドミニック氏は、1980年代からタイを拠点に記者を続けてきた。いま、東南アジア全体の民主主義が過去に逆戻りしていると言い、危機感を隠さない。
「2014年の軍事クーデターで、タイの民主主義は過去に後戻りし、後退をしました。カンボジアではフン・セン首相が独裁を続け、ミャンマーでも完全な民主化は進んでいません」
「タイを見なさい。80年代から民主化運動を武力で弾圧してきた歴史がある。なぜ、多くの血を流した過去から学ばないのか。私は1992年に起きた暗黒の5月事件のとき、現場にいたんです。あの悲劇は忘れることができない」
ドミニック氏の言う「暗黒の5月事件」とは、1992年5月に起きた民主化運動のデモ隊鎮圧を指す。軍事クーデター後に誕生したスチンダー首相の退陣を求め、バンコクで約20万人もの民衆がデモに参加。それに対し、軍は武力で鎮圧を図り、銃撃を受けるなどして300人以上の死者が出た。
この事件がきっかけとなり、タイの民主化は一歩前進したと言われている。
このとき、軍の発砲で息子を亡くしたアドゥンさんは、「1992年5月被害者の会」の代表として、今も事件を語り継いでいる。
「息子のアローンコンは当時20歳で、翌年の海外留学が決まっていました。でも、『この状況を変えたい』と言い残してデモに参加し、軍の発砲で死んだのです。あの虐殺を語り継ぐためにメディアに出て活動していますが、軍からは執拗に嫌がらせを受けています」
以前は毎日必ず、軍から3度電話があったという。
「午前には馴れ馴れしい声で『和解金をあげるからあの事件を語るのはやめましょう』と。夜には怒鳴り声で『馬鹿野郎。これ以上続けたら殺す』と。日の出の前には優しい声で『憎しみ合うのは良くない。成仏しないよ』と言って、仏教の教えを淡々と説くんです。妻は息子の死後、気が狂ってしまいました」
取材中、アドゥンさんは大粒の涙を流した。息子のことを思い出しているのだろう。
「私はビジネスで成功しましたが、息子のことを思うと、ずっと、罪悪感がある。今でも息子の遺品は全て保管しています。私たち家族は27年間、苦しんでいる。だから、他の人に同じ思いをさせたくない」
総選挙後、首都バンコクの繁華街は、普段と変わらずにぎわっている。日本人観光客も多い。
深夜。物乞いをしていた視覚障がいの男性の前を数人の若者が通りかかった。ポケットからコインを取り出し、コップに入れる。タイでは、一部の特権富裕層が利権を握り、多くの人々は諦めたかのようにそれを受け入れているという。
男性は、ずっと手を合わせて拝み続けていた。多くの国民と同様、声を上げることができず、身を任すことしかできないのかもしれない。
後藤勝(ごとう・まさる)
写真家。Yahoo!ニュース 特集で写真監修。1966年生まれ。89年に渡米。中南米を放浪後、南米コロンビアの人権擁護団体と活動。97年からアジアを拠点として、内戦や児童売買、エイズなどの社会問題を追う。2004年上野彦馬賞、05年さがみはら写真賞を受賞。12年に東京都墨田区で写真総合施設Reminders Photography Strongholdを設立する。http://www.masarugoto.com/