タイと日本の関係は深い。この「ほほ笑みの国」を訪れる日本人は年間約160万人。日系の進出企業も5000社以上を数える。そのタイで今年3月、8年ぶりの総選挙があった。平和で穏やかなイメージがある一方、2014年の軍事クーデター以来、タイでは軍事政権が統治を続け、厳しい規制が敷かれている。また、人口の1%が66.9%の富を保有しているとして「世界で最も不平等な国」との評価もされた。“外”からは見えにくいタイの姿とは――。この10年間をフォトストーリーで追う。(文・写真:後藤勝/Yahoo!ニュース 特集編集部)
深夜のクラブで「軍事政権批判」イベント
総選挙前の今年3 月。深夜にバンコク市内のクラブを訪れると、DJがかける音楽に合わせて若者たちが踊り狂っていた。激しいダンス音楽、虹色のレーザーライト。軍事政権を批判するこのイベントには、民主化運動の活動家やアーティスト、学生など約50人が集まっていた。多くが大学生だ。
ステージには、元陸軍司令官で軍事政権の暫定首相プラユット・チャンオチャ氏の選挙ポスターが掲げてある。「政変の国」でもあるタイでは、1980年代から未遂を含めて5回も軍事クーデターが起きた。1981年、85年、91年、2006年、そしてプラユット氏が実権を握った14年と続く。
クラブでは、音楽と若者の声がやまない。
「私はプラユットだ。タイの治安を安定させたのは私だ。私が次期の主導者だ!」
「イエー! 私だ! イエー! 私だ! イエー!」
プラユット氏の選挙演説をサンプリングした4ビートの曲が流れる。若者たちが踊りながら叫ぶ。
「もう軍はいらない!」
「老いぼれは去れ!」
「自由と民主化を!」
DJをしていた民主活動家のリーナさんは言う。
「タイには自由はありません。この国では、女性たちが繁華街で三本指のピースサイン(反軍事政権を示す)を掲げただけで、車に引きずり込まれて治安部隊に連行される。私も、この若者たちも、軍事政権に怒りを感じています」
ピースフル(平和的)ではなく、サイレンス(沈黙)
総選挙を6日後に控えた首都バンコク。市内を歩くと、マーケットには外国人観光客があふれ、ショッピングモールは家族連れのタイ人や若者で賑わっている。平穏そのものだった。
ところが、である。
チュラロンコーン大学政治学部のナルエモン准教授はこう語る。
「一見して今のタイは、とても平和的に見えます。しかし実際には、軍事クーデター後に樹立された国家平和秩序評議会(NCPO)によって、厳しい統制が敷かれ、自由な発言や行為は規制されています」
ナルエモン准教授は続けた。
「人々はいつ逮捕されるか分からないという恐怖感を常に感じています。友人との会話や大学の授業、インターネット上も常に見張られている。目に見えない圧力がかかり、大学が主催する会議も、政治的なテーマは一切禁止。この状態はピースフル(平和的)ではなく、サイレンス(沈黙)なんです」
「世界で最も不平等な国」
金融機関クレディ・スイスの2018年調査によると、タイでは、人口の1%が66.9%の富を保有しているという。ロシアやインドネシアを抑えて、タイを「世界で最も不平等な国」と位置付けている。
タイでは1973年まで軍のリーダーが首相になる「軍部独裁」が続いていた。学生を中心とした反政府・民主化要求のデモは、その都度、厳しく弾圧された歴史がある。
80年代以降は、タイ経済も成長軌道に乗った。輸出品は、米やゴムなどの「農産物」「原材料」からコンピューター部品、織物といった「工業製品」「加工品」へ。ベトナムやカンボジアなど周辺国での戦乱も落ち着き、観光産業も急成長した。90年代に入ると、経済の安定に歩調を合わせ、軍部も少しずつ民主主義を取り入れていく。
しかし、経済発展によって都市部と農村地帯の格差は拡大。首都バンコクには地方からの出稼ぎ者があふれ、スラムは拡大し、若い女性は人身売買の対象になった。「東南アジアの優等生」と呼ばれながらも、不安定な状態が続く背景にはそうした格差拡大が横たわっている。
8年ぶりの総選挙、問われたものは
軍事政権によって厳しい統制が敷かれるなか、国会下院(定数500)の議員を選ぶ総選挙は今年3月24日に行われた。
主な政党は4党。
軍事政権派の「国民国家の力党」は暫定首相のプラユット氏らを次期首相候補として届け出た。軍政と対立するタクシン元首相派の「タイ貢献党」の首相候補は、スダーラット元保健相ら。軍政とタクシン派の双方と距離を置く「民主党」はアピシット元首相を党首に、そして反軍政を明確に掲げた新党「新未来党」は自動車部品大手タイ・サミット・グループ創業者一族のタナトーン氏をトップに置いた。
軍事クーデターからの5年間、軍事政権は全ての政党活動を禁止するなど今回の総選挙向けに着々と準備を重ねていた。軍事クーデターで何度倒しても、選挙になると、タクシン派にいつも負けてしまう。だから、「選挙で勝つシステムを作る」ことこそが軍事政権側の狙いだった。
例えば、2016年には、軍事政権が新しい憲法草案の賛否を問う国民投票を実施している。草案は、下院議員500人は選挙で選出する一方、上院250人については軍が選ぶといった内容。軍事政権に有利な草案である。そのうえで選挙制度も変更し、タクシン派の過半数獲得が難しくなるようにした。
国民投票の結果、賛成61%で新憲法草案は承認された。軍事クーデター後の「安定」が評価された面もある。
だが、国民投票の前に、軍事政権側は「草案に関し歪曲した情報を広めた者」に最高で禁錮10年を科す仕組みをつくった。草案に関する集会も禁止。そして、多くの民主活動家を逮捕していく。
ジャーナリストも逮捕された。ウェブニュースサイト「プラチャータイ」のポングパン編集長は言う。
「編集部のタウィサーク記者は2016年、ラチャブリー県で民主活動家と共に逮捕されました。活動家が持っていた『国民投票NO』と書かれたステッカーが、国民投票法第61条『政治的な混乱や集会を目的としてビラ・冊子を配布すること』に反するという理由でした。ジャーナリストでさえ拘束される。タイに民主主義を取り戻さなければなりません」
不正と混乱、選管批判 選挙後も
3月24日の総選挙は、どんな結果になったのか。
選挙管理委員会は5月8日、ようやく公式結果を発表した。それによると、小選挙区(定数350)と比例代表(同150)を合わせた議席数は、タクシン派の「タイ貢献党」が136議席で第1党になった。次いで軍政派「国民国家の力党」115議席、「新未来党」80議席などの順。
2年前に施行された新憲法によって、次の首相は、軍が事実上指名する上院250人および下院500人の計750人で選出される仕組みになっている。そして今回、反軍政を明確にした勢力は下院の過半数を獲得できなかった。軍政の継続は、ほぼ確実だ。
今回の総選挙でも「不正」の報道が相次いだ。選管への批判もやまない。一部の小選挙区では、投票者数と開票数が一致せず、投票のやり直しが行われる。
タイの選挙監視団体「PNET」のラダワンさんは言う。
「今回の総選挙は過去最悪でした。選管のずさんな体制、準備不足による混乱、投票者数と票数の不一致……。多額の予算の不透明さなどもあります。全て国民の信頼を裏切った行為。一部では票の買収疑惑もある。トップは責任を取るべきです」
大学生たちも選管メンバーの罷免を求める署名運動を始め、インターネット上で約85万人分を集めている。
総選挙の結果によると、第3党は新党「新未来党」だ。支持者の多くは若者だという。利権や汚職にまみれたタクシン派、軍事クーデターを繰り返す現政権側。「どちらにも愛想が尽きた」という理由からだ。
その新未来党のタナトーン党首は、反軍政デモ参加者の脱出を助けたとして煽動罪(せんどうざい)に問われ、同党は解党処分を受ける可能性がある。アピラット陸軍司令官も「立憲君主制の変更を企てれば、内戦になる」と警告。軍政派団体も、国家の安全保障と王室を脅かすとして、選管に同党の解党を要求している。
「表現の自由」を規制
タイには、煽動罪のほかにも、表現の自由を規制する法規が数多く存在する。
冒涜(ぼうとく)罪、中傷罪、コンピューター犯罪法などがそれだ。とりわけ、刑法の不敬罪は厳しい。王室に関する批判や報道を取り締まる規定で、誰でも告発が可能だ。刑罰は1件につき最大で禁錮15年。タクシー運転手やカフェの店員らによって告発されることもあり、人々は公の場で王室を一切批判しない。
2014年の軍事クーデター以降は、メディアや民主活動家などに対する規制も強まっている。「不敬罪で罰せられるかも」というプレッシャーを与え、言論を規制しているという指摘もある。国際人権NGO「IMADR」によると、このクーデター以降、少なくとも90人が不敬罪で逮捕され、半数近くが最大30年の禁錮刑を言い渡されたという。
英字新聞「ネイション」の元記者で、タイ人ジャーナリストのプラビット氏は、軍事政権の批判記事を書き続けた。そのため、軍事クーデター以降、2度勾留。現在も騒擾(そうじょう)煽動教唆罪で告発されている。
「最初の勾留は軍事クーデター直後の2014年5月です。自分のツイッターに『銃や戦車による正当性? 何という冗談だ』と書き込んだ。勾留直前には『軍に出頭するが、私の良心は明らかだ。自由は独裁に勝る』とツイートしました。その後1週間、軍の尋問センターに勾留され、『反軍事政権活動には関わらない』という署名を書くように迫られ続けたのです」
2度目は2015年9月だった。自宅から目隠しをされ、バンコク郊外の軍基地へ連行されたという。
「尋問室では脅迫され、全ての権利や自由を侵害されました。彼らは、私のネット上での行いを気にしていたんです。軍事政権はその後、『ネイション』に圧力をかけ、私を辞職に追い込みました」
さらに2017年8月には、自身のフェイスブックに軍事政権批判を投稿したとして、騒擾煽動教唆罪で告発されている。ニューヨークに拠点を置く「ジャーナリスト保護委員会(CPJ)」によると、有罪になると7年から20年の刑になるという。
プラビット氏は続ける。
「私たち、意見の違う者同士は話し合いで(対立や問題点を)解決しなければなりません。しかしタイでは一つだけ話し合うことができないことがある。それは王室のこと。不敬罪は海外メディアにも適用されるため、タイの報道は核心に触れていない」
権力批判ができないメディア
軍事政権は、テレビ局に放送停止を命じたこともある。まずは2017年3月のことで、相手はタクシン派のテレビ局「ボイスTV」。一方的な報道によって国家の安全を脅かした、という理由で7日間の停止だった。その報道は、民主活動家の殺害事件に関する政府の責任、軍人による権力乱用、カジノへの警察の関与などだった。ボイスTVは今年2月にも、ニュース番組で国内の対立をあおる発言があったとして、15日間の放送停止になっている。
ボイスTVディレクターのピンパカさんは「メディアが権力側に対して批判ができないという状況が続いている。とても危険です」と訴える。
「15日間の放送停止という命令は、これ以上は声を上げるな、という軍事政権からの圧力だと感じます。でも、私たちはジャーナリスト。テレビを通じて人々に真実を伝えるのが仕事です。決して屈しません」
後藤勝(ごとう・まさる)
写真家。Yahoo!ニュース 特集で写真監修。1966年生まれ。89年に渡米。中南米を放浪後、南米コロンビアの人権擁護団体と活動。97年からアジアを拠点として、内戦や児童売買、エイズなどの社会問題を追う。2004年上野彦馬賞、05年さがみはら写真賞を受賞。12年に東京都墨田区で写真総合施設Reminders Photography Strongholdを設立する。http://www.masarugoto.com/