橋本江

「親戚は全て離れていきました」――元ハンセン病患者の女性が向き合った差別と時代

1/8(火) 8:14 配信

「自分の家族のこと、たいへん素敵だと思っているんですよ。絆がバッチリできている」。激しい差別に苦しんできた元ハンセン病患者の女性は、そう言い切れる喜びを心から感じているという。いわれなき差別、思いもかけぬ事故、消えぬ戦争の傷あと……。平成の終わりが近付いても、昭和から続く時間の中で多くの人が「いま」と向き合っている。(Yahoo!ニュース 特集編集部)

「孫娘が『ばあちゃん、差別する側が間違っている』って」

ハンセン病回復者 金城幸子さん(77) 沖縄県うるま市

金城幸子さん。国立療養所・沖縄愛楽園そばの浜辺で

神経の麻痺や皮膚の斑を引き起こすハンセン病はかつて、「不治の病」「簡単に感染する」と恐れられ、患者への強い差別があった。金城幸子さんは養母のもとや療養所で育ち、昭和と平成を生き抜いた。

「(ハンセン病の)両親は台湾に行って、旅館を借りて生活。症状が悪くなった母は療養所に入ることになるんです。父は台湾の市役所で働いたときに後妻となる人と恋愛して、母は捨てられたわけですよ。私は、沖縄の父の実家に戻されて。祖母は、私を那覇のハンセン病の人たちのたまり場に捨てたようです。そこで、カミンチュ(神に仕える人)に拾われて、育ての母と出会いました」

「8歳のころに発症。頬がリンゴみたいに腫れ上がっていました。育ての母は血を出せば治ると思って、腫れ上がっているところを切るんですけど、迷信だったわけ。わけの分からない皮膚病は、昔はそうしてた。麻痺しているから切られても(痛みも)なんともない。腕もみんなコブで、全部膨れて。療養所(沖縄愛楽園)に来て、プロミン(ハンセン病の薬)で、あの腫れは今の状態になったわけ」

腫れていた頬をさする

病気を隠したまま就職し、27歳で結婚した。夫にも病気のことを言えず、10年。そして告白する。

「離婚覚悟で『あのね〜、あのね〜』って言い出してから、何分かかったか分かりません。『早く言え!』ってせかすから、私の病気のことを言いました。そのときはすごく優しい言葉で『おまえも苦労しただろうな』って言ってくれて」

「ずーっと不安でした。(病気のことが)子どもたちの学校でバレはしないかって、逃亡者のような気持ちで、ビクビクして。長男が2回め(の挑戦)で琉球大に合格した。あの当時はテレビに(合格者の)名前が出るんですよ。そうすると、私のことがバレて、息子の大学合格が取り消しになるんじゃないかって不安で」

「平成」は、金城さんにとって裁判の時代だった。ハンセン病患者を社会から隔離する「らい予防法」について、治る病気だと分かった後も法律をそのまま放置した責任を国に問う訴訟。1998年の提訴後、金城さんも原告に加わり、元ハンセン病患者として名前も顔も公表した。

「(弁護団の弁護士に)『金城さんの病気、治っていますよ』と言われたとき、本当に金属バットでガーンと打たれたみたいに真っ白になったよね。『先生、ここ(手首)からここ(肩)まで全部麻痺だよ。治っていないでしょ』『これは後遺症。病気は治っているよ』って。悔しくて、もう……。58歳ですよ。あのときまで自分にも『治らない』『嫌われて当然』『両親が病気。遺伝病だ』という思いがありましたよね。そんななか、死に物狂いで子どもたちを守って、揚げ句の果て簡単に『治っていた』と言われて。本当は、医者が『治った』って言うべきなのに、言ってくれなかった」

沖縄愛楽園にいたころを振り返る

「(名前も顔も公表して)親戚は全て離れていきましたよ。結婚式には一度も呼ばれたことないし……。そ、こんなです、まだ。腹違いの弟がいて、私の長男の結婚式まで来てくれて、『ねえさん、ねえさん』と良くしていたのに、(訴訟関係の)新聞を見て『あの新聞に出ているの、ねえさんだろ』と電話が来た。『そうだよ』と言ったら、『もう、これから電話しないでくれ』って。それが最後。そうなると、家族っていったい何だろうなって」

「でも、自分の(近くにいる)家族のこと、たいへん素敵だと思っているんですよ。絆がバッチリできている。(孫娘の)光彩が中学校か高校だったか覚えていないけど『治った病気なんでしょ、ばあちゃん。差別する側が間違っている。自分たちの家族は普通なんだよ』って。考えてみたら、全国で家族、孫まで表に名乗り出たのは自分の家族しかいないと思うんですよ」

子や孫に囲まれて

出会った子どもたちから寄せられた色紙

2002年以降、金城さんは中学・高校で自分の体験を話したり、自身をモデルにした舞台に立ったりしてきた。

「(2018年12月の)この舞台で(舞台も講演も)最後にします。後輩に後継ぎもできたので。私は元気なうちに、療養所の中に閉じ込められて精神を病んだ人たちに寄り添っておしゃべりしたい。残り少ない人生を送っている園内の人たち、みんな、ほとんどが家族から見放されている。残り少ない人生、少しでもそういう方たちに寄り添えるようにしていければな、と思って」

(文・撮影:橋本江)

「520人の命を伝えてくのは、健ちゃんからの宿題なんです」

日航機墜落「8・12連絡会」 美谷島邦子さん(71) 東京

美谷島邦子さん。次男・健君の写真の前で。「私が笑えば健ちゃんも笑ってくれているはず」

1985年8月12日、日本航空の旅客機が群馬県・御巣鷹山に墜落し、520人が犠牲となった。美谷島さんは当時9歳だった次男・健君を亡くし、遺族でつくる「8・12連絡会」の事務局長を務めている。

「健ちゃんのこと話せるようになったのは、本当に最近。30年経ってからですね。乗り物の好きな子でした。25メートル泳げるようにもなったし、冒険させてやりたくて、叔父さんのいる大阪まで一人で。私は羽田で機影が見えなくなるまで見送って……。健が最後に言ったのが『ママ、一人で帰れる?』って言葉でしたけど、30年振り返ってみると、私はずっと迷い続けてきましたね」

「連絡会は事故の年の12月に立ち上げました。今みたいにメールがない時代だったから、遺族にはファクスで連絡して。お互い涙流しながら電話してね。遺族の手紙集めて文集作ったり、会報作ったりしてきました。空の安全を促したくて、国や企業に要望書を出したり。私たちが伝えていかないと、何も理解してもらえないと思って」

連絡会の会報「おすたか」。2018年7月で108号を迎えた

JR福知山線の脱線事故や東日本大震災など、多くの遺族と交流を重ねてきた。

「最近だと御嶽山の噴火災害とか、軽井沢のバス事故とか。『ちょっと聞きたいことがあって』と連絡くださって。悲しみって人をつなぐんだなって。自分の悲しみって、自分でしか向き合えないんですよね。でもそのとき、仲間がそばにいてくれたから歩んでこられた。この間、神戸で結婚式呼ばれたんですよ、遺族の男の子の。それって、すごくないですか? あの事故がなかったらそんな出会いもなかったけど、みんなでそれを祝福できて。悲しみからもらう力っていうのかな。私も33年間で、本当にいろんな人にそれをいただいたなって。感謝ですね」

「悲しみって、乗り越えるものじゃない。一緒に生きてくものだと思った」

「最近、被害者支援とかって言われるようになったけど、学問として位置付けなきゃいけないほど難しいことなのかしら。悲しんでる人に声を掛ける勉強をしなきゃいけない時代になっちゃったのかな。ただ人間として、ってことだと思うんだけど」

この数年は、子どもたちに向けた講演会に力を入れている。

「子どもたちに『死』を語るのってハードルが高いんですよ。でも、今って死が身近でなくなったでしょ? おじいちゃん、おばあちゃんを自宅で看取ることもなくて。子どもたちには悲しみをきちんと胸の中に収める力をつけてほしいし、それができれば、誰かが悲しみを抱えたときに寄り添えますよね」

幼稚園で「いのちの授業」をする(提供:美谷島邦子さん)

「命についてとか、表向きは発言できる場が増えてきたけど、根本的にはどうなんでしょうね。それよりもAIとか技術の進歩が速くて、きちんと議論されないとまた安全が危機にさらされちゃうのかなって。『過去は未来を映す鏡』って言葉が大好きで。過去に向き合わない限り、未来はないですよね。鏡を曇らせてしまう社会は、同じことを繰り返すんだろうなって思うの。事故や災害も。520人の命を伝えてくのは、健ちゃんからもらった私の宿題なんです。たくさんの人に助けてもらわないと、この宿題は終わらないなって思ってます」

(文・撮影:廣瀬正樹)

「被ばく者の写真を見せないでくれ、という学校もあって」

原爆の語り部 森口貢さん(82) 長崎市

森口貢さん。被ばくした浦上天主堂の壁の前で

長崎への原爆投下の約10日後、森口貢さんは長崎へ入り、被ばくした。当時8歳。戦後は長崎で教師に。引退後、「長崎の証言の会」で被ばく者の証言を集め、自身も語り部として活動してきた。

「会での私の活動は、もう二十何年になります。若い方、修学旅行生を平和公園に案内したりとか。相当な人に伝えたと思うんですけどね。5000人、もっと多いかもしれない。もうこの年だから、ひどく疲れますね。歩くのが少々きつくなりました」

「学生たちの変化? ありますよ。最初のころはね、まだみなさん、『おじいちゃんもそうだった』とか。家族から聞いていたからある程度の知識があるし、なんとなく話が通じたんですよ。最近はそれが少なくなりました。極端に。周りで戦争経験した人がほとんどいなくなったんでしょうね。話しても、『へー、そういうのがあったの』って」

長崎市の平和公園には、取材の日も多くの修学旅行生が集まっていた

「学校に話しに行きますとね、(原爆投下直後の被ばく者の)こんな写真、見せないでくれって言うんですよ、学校は。子どもたちが怖がるから、夢に見るから、と。『じゃあ平和とは何?』って聞くと、『動物をかわいがることでしょ』くらいしか言わない人もいますよ。もう全くね、戦争の非人間性を理解しようとしない。確かに考えてみると、4分の3世紀過ぎましたからね。もうすぐ1世紀ですよ」

2014年、修学旅行生に「死に損ない」と言われた。

「最初から聞く耳を持たない感じで。私がちょっと注意したら、その子たちが団体から外れて、私のところに戻ってきて、『この死に損ない』とかなんとか。最初は腹が立ったんです。でもその後、『そうか』と。この子たちの言い分をね、もっとしっかり聞いていかないといけないと。今まで私たちの話は、押さえつけみたいで、一方通行で。そうじゃなくて、子どもたちの考えを聞いて、ディスカッションしながら伝えないといけない、と。それは私の反省なんです」

「若者たちも戦争や平和に興味がある。足りないのはそれを考えるための機会」

近頃のニュースに、思うことがあると言う。

「突然、車でね、繁華街の真ん中暴走してみたり、ちょっと暴れてみたり。本当、分からないですよ。相手を思いやることがなぜできないのか。それが今ひどく目に付くんですよね。『俺の知ったことじゃない』って考え方がはびこったのが現在じゃないか、と。『とりあえず平和って言っておかなきゃ』って、表だけの平和であって、平和っていうものをしっかり考えてこなかった時代だと思いますよ。『戦争がなければ平和だ』って、そんな簡単なものじゃない。原爆で何人死んだとか、知識じゃないんですよ。大事なのは気持ち。自分ならそのときどうできるか、気持ちを伴って想像していくことが平和の始まりなんです」

「会では、被ばく者の証言を集めて証言集作ってます。今800部刷ってます。前は2000部くらいパッと売れたんですけどね、いま売れないですよ。ぐっと減りました。それでもなんとか発行していかないと」

(文・撮影:廣瀬正樹)

「みんな、あんぽんたんみたいな、こんな時代がありがたいのよ」

戦争経験世代 岡田節子さん(86) 神戸市

岡田節子さん

敗戦から73年が過ぎ、人口の8割以上は戦後生まれになった。戦争経験世代の岡田節子さんは10代のとき、郷里・鹿児島県で空襲に遭った。

「(戦争中のことは周囲に)あんまり話さんね。もうね、そういう時代は過ぎてるのよ。70年経ってごらん。なぁ? みんな亡くなった。おととしくらいまで(小学校の)同窓会があったけど、もうない。もう、よぼよぼ。もう死んだのよ、みんな。1人おる友だちも電話に出られんようになった」

「(今の若い人は)みんな、あんぽんたんみたいなね。こんな時代がありがたいのよ。なんちゅうかな、切羽詰まった感じがないでしょ。昭和の時代は戦争があって、負けて、逃げ回って」

鹿児島空襲は死者3329人、負傷者4633人。

「みんな、負けるなんて思ってへん。米軍は焼夷弾を落とすから、わっと燃えた。防空壕はあったけど、お父さんが『危ない』と言って、みんなで山に逃げたの。夜が明けたら全部焼けてた。防空壕に入ってたら、家族7人みんな死んでた。(父は)明くる年の4月に死んだ。48歳。今で考えると若いよな」

若いころの写真はあまりない

「教科書は2人に1冊。勉強した記憶はないわ。勉強よか、食べ物よ。学校では、みんな畑に行きよったの。校庭を畑にしてた。イモ作りやな。肥料がないからって、馬の糞拾いに行ったり。意味があったんかな、と思うで。戦争に負けて、また授業始まったけど、1年下のいとこ、おじさんと3人で家を借りて、薪割って自炊。勉強どころじゃないのよ。何しよったんじゃろな? おかず、何食べよったんじゃろ?」

看護師になり、25歳で結婚して神戸へ。2人の子どもを育てた。昭和と平成を駆け抜け、今は88歳の夫と2人で暮らす。

「昔は看護師の地位が上でなくて。でも看護師、面白かった。毎日、四つくらいアッペ(虫垂炎の手術)があったもん。人が腹切られて……面白いと思わへん? ケガや結核も多かった。栄養状態が悪かったの。入院が30人くらいおった。朝5時から起きて、ずーっと忙しかったね。今みたいにモノがないから、ガーゼも洗って消毒してまた使う。(看護師も)6畳に4人くらいで寝てた。夜中に寒くなると、人の布団を引っ張るわけよ」

「毎朝ご飯もあげるし、水は替えるし。ご先祖大事にするから、幸せでおれるのよ」

「(平成時代は)なんか、人情が薄くなった。いろんな意味でドライ。満ち足りてるから助け合いの精神がなくなった。昔は隣と差し入れ合ったりしてたもん。歩き方でもそうやんか。おばあさんがおっても、さっさっさと行ったりな。私は、どうぞ先に行ってください、っちゅうて、よけるけど。それに(個人の商店では)もう売れないのね。近所の八百屋さんも兄弟2人で経営してたのに、1人は郵便配達しとるもん。食うていかれんって言うてな」

「這うようにして暮らしてきたけど、(今は)健康で、おいしいもの食べれて。ちょっと、べっぴんに足らんくらいやな。私、友だち多いから。(友だちに)柿の葉のおすしを送ったら、その(すし店の)前通るたび、店員が私に抱きつくねん。送った先の人からも、お米が10キロ来たの。やったりとったりが情。(物をあげたら)喜ぶやね? 『そごう』の子たちなんか、みんな友だちよ。飴、喜ぶよ。大概、飴を持って歩く。もう鹿児島を出て60年なるんや。大阪のおばちゃんやで」

行く先々で友人に出会う

(文・撮影:田之上裕美)


【連載・「わたし」と平成】
平成が終わろうとしています。都会や地方、職場や家庭で日々を生き抜く人々には、それぞれに忘れられない思い出や貴重な体験があります。有名無名を問わず、この30年を生きたさまざまな人物に焦点を当て、平成とはどんな時代だったかを振り返ります。本連載をまとめた書籍『「わたし」と平成 激動の時代の片隅で』は3月26日刊行。

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