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吉田直人

「上を目指して突っ走ってきました」――転落事故で人生一変、車いす男性の"わが道"

2019/01/06(日) 07:38 配信

オリジナル

男性は23歳のときの転落事故で人生が変わった。56歳になったいま、こう語る。「自分には誕生日が二つあるんです。普通に生まれた日と障がいを持った日と。僕にとっての平成は激動です。けがから社会復帰できて、上を目指して30年間ひたすら突っ走ってきた」————。ホストとして生き抜いた男性、バブルに背を向けるように生きた書店主、時代の荒波にもまれた薬局経営者。全力で駆け抜けた「わが道」をそれぞれが語る。(Yahoo!ニュース 特集編集部)

「障がい年齢33歳。もうちょっと生かしていただいて」

会社員 佐藤隆信さん(56) 大分県別府市

佐藤隆信さん

大分県別府市の社会福祉法人「太陽の家」は“保護より機会を”を掲げ、障がい者の働く場づくりに寄与してきた。その一つ、1983年設立の「三菱商事太陽」は同法人と三菱商事の共同出資で、社員112人のうち70人が障がい者。大分県出身の佐藤隆信さんは1989(平成元)年に入社した。

「地元の高校出て、自衛隊に入りました。航空機体整備員を希望したのに、適職診断の結果は通信員。基地間の交信業務の道に入りました。最初は戸惑いもあったんですけど、そこでコンピューターと出合うわけなんです。ちょうど、配属が(東京の)市ケ谷基地だったんで、周りに夜学とかがいっぱいあって。夜勤のとき以外は勉強してましたね」

1986年5月23日、転落事故で下半身の自由を失った。

「あまり思い出したくないところなんです。休日に友人宅を訪問して、手伝いでベランダかなんかにあるやつを取ろうと身を乗り出した瞬間に落ちたような覚えがあるんです。そこで脊髄損傷。医者には『一生歩けない』と言われて。『なぜ? 治るでしょう』と。23歳のときです。(障害者)手帳を取った時点で自衛隊は除隊になりました。まあ、クビなんだろうな、と。ある日、夢で車いすに乗ってたんです。そのときに自分の深層心理が見えた気がして。体では受け入れても、心まで障がい者になっちゃったのかな、と。でも、そこからです。とりあえず生きてはいるし、落ち込んでる場合ではないと」

佐藤さんの指に結婚指輪が光る。現在はクラウドサービス部部長兼アウトソーシング部アウトソースチームリーダー。障がい者4人、健常者2人を率いる

「ここの正社員になったのは元年の7月です。通信員時代のコンピューターの知識が幸いして、システム開発、保守の業務畑を歩いてきました。けがをしてからも個人的に知識を高め、チームのリーダーを任されるようになっていきました。僕自身、新しもの好き。新しいツールはどんどん使ってみようと。楽しく仕事してきましたよ。障がい者社員の中では、役職的には一番上なので、見本を見せていきたいと思っています」

1997年に職場結婚。当初、先方の両親には反対されたという。

「当時は障がい者に対する社会的な認知度も低くて、はじめは(先方の両親に)反対されまして。悶々としながら日が経つなかで、半ば飛び出すような感じで僕のところに彼女が来て、それから『どうかひとつ……』と。一生懸命説得しましたよね。長男ができてからは、先方の両親にも頼らせていただきました。今、15歳。もうすぐ高校受験です」

佐藤さんは受傷後ほどなく、車いすスポーツを始めた。毎年11月の「大分国際車いすマラソン」には1988年から参加している。別府―大分間の海岸線でトレーニングに励んでいるという

「僕にとっての平成は激動です。けがから社会復帰できて、上を目指して30年間ひたすら突っ走ってきた。ちょうど今朝、朝礼で話したんですよ。『障がい年齢33歳や。まだまだ、これから』と。中途障がいの人って、誕生日が二つあると言ったりするんです。普通に生まれた日と、障がいを持った日。けがした当時、『60まで生きれるかな』って言われたんです。30年前は、器具の性能とか医療もまだ進化してなかったので。だんだん(60歳が)近づいてきて、おいおい、近いぞ、みたいな感じではあるんですけど、もうちょっと生かしていただいて、知識と経験を生かして、役割を見つけていきたいです」

(文・撮影:吉田直人)

「結局、生き残ったのは僕ひとりでした」

ホストクラブ経営者 愛田孝さん(53) 東京・新宿

愛田孝さん。職場は新宿・歌舞伎町

2018年10月、「ホストクラブの帝王」と言われた愛田武氏が亡くなった。その長男で現在も東京・新宿区歌舞伎町でホストクラブを経営する愛田孝さんが、父と歌舞伎町ホストの平成を振り返る。

「父の店で働きだしたのは30歳のとき。実はそれまで父親が愛田武とは知らなかったんですよ。僕は小さなころから、母方の祖父母に育てられたんです。結婚の際に妻の父に勧められて、戸籍を頼りに父親捜しをしたら、愛田武と分かりました。歌舞伎町の風林会館1階の『パリジェンヌ』という喫茶店で初めて会ったとき、『会いに来るのを待ってたよ』と言われました。それでそのまま、腹違いの弟2人と父の店で働きだしたんです」

軽妙なトークは父親譲り

父と初めて会ったのは1996年。それから4、5年たったころ、ホストブームが起きる。

「父の陽気でなんでも話すキャラクターが注目されて、テレビによく出るようになったんです。人生がドラマになったこともあります。それをきっかけに一般のホストたちも面白がられて、テレビのバラエティー番組に引っ張りだこになりました。僕自身もゴールデンタイムのバラエティー番組に6、7回出ましたよ」

「それまで日陰者みたいな扱いだったホストたちがテレビに堂々と出るようになって、お客さんも増えました。早い時間帯はOLさんとか、昼職やってる女性たち。遅い時間は自分の店がハネたあとの銀座のクラブのお姉さんたち。平成でいちばん店がもうかった時代じゃないですか。ホスト志望者も毎月100人くらい来ましたから」

父の遺骨とともに

そんなホスト景気は急転直下で悪化する。2003年ごろ、ある人物がきっかけだったという。

「石原慎太郎都知事時代に竹花豊副都知事が就任してからですね。広島県警時代に暴走族壊滅作戦を指揮した人で、歌舞伎町浄化作戦と称して、水商売の取り締まりを徹底した。キャッチ(客引き行為)が禁止され、それまでお目こぼしされていたホストクラブの深夜営業もできなくなりました。それと同時期に大阪のホストクラブが格安料金で殴り込みをかけてきて、価格破壊も起こりました。この影響は今もあって、『太客』(たくさんお金を使う客)は減って。今は初回料金1000円からの薄利多売の商売ですね」

若いホストたちにも慕われている

ホスト景気は底を打ってから少し持ち直し、そこから横ばいが続いているという。

「これからどうなるのか。不安はありますが、毎日、足元の仕事をやるしかない。実は父の前に弟2人も亡くなっています。2人とも自殺でした。それで今年、父も亡くなり、妻からは『あなた1人になっちゃったわね』と言われています。父から『兄弟の中でいちばん水商売に向かない』と怒られていた僕が生き残ったのは皮肉ですね。でも昔と違うのは今の僕には若いホストたちが慕ってついてきてくれたこと。父はよく『この仕事は人のつながりを大切にしなくちゃいけない』と言ってました。裏切ったり、裏切られたりするのは日常茶飯事のこの街で、それだけは守ってきたことが、僕が歌舞伎町で生き残れた理由かもしれません」

(文:神田憲行、撮影:福田栄美子)

「ビートルズ聴いたことない? ちょっと待て」

書店主 大井実さん(57) 福岡市

大井実さん

京都の大学を卒業後、東京・表参道で働いた。ファッション業界でのイベント企画。「お金をガンガン動かしていた」が、1990(平成2)年に退職し、暮らしてみたかった欧州へ。帰国後、子どものころから好きだった本屋をやろうと決意した。

「僕らはバブル世代と言われていて……。僕は恩恵を被ったわけではなくて、居心地悪かったんです。語りとか対話とか、青臭いことが好きなタイプで。でも当時は、そんなことを考えるくらいなら、『上がりそうな株でも調べて買え』ってな時代。みんな株とかやってたから」

「この居心地の悪さは何だろうって、解を求めてヨーロッパに行って、イタリアで『あぁ』と感じたわけです。イタリアの商店では、一人ひとりの接客時間が長くて、なんだかすごく面白いんですよ。日本では、そういうものが、コンビニとかで合理化されてなくなっちゃっていったところでね。本屋を開いたのは、そりゃ、イタリアを見たからです。東京で働いた反動でもあるかな。大きく資本を動かして、宣伝して、消費をあおって、っていうやり方は、もういいや、って」

1店目の「けやき通り店」

2001年、15坪の小さな総合書店「ブックスキューブリック」を福岡市に開いた。ブックイベントの先駆け的な仕掛け人でもある。新刊書店を個人が開業する例は最近ほとんどないが、2008年にはカフェとギャラリー併設の箱崎店も開いた。

「最初はね、自分の居場所づくりが目的だったんです。でも最近は、やるやつがいないんだったら、俺がやるしかないか、みたいな。うちは、一人ひとりのお客さんの単価が高い。それだけ本をたくさん読む層のお客さんに支えられているんだけど、一般的には……」

「こないだも驚いたのがね、その子は大学出て新聞記者になったような子なんですが、いろいろ話しているうちに、びっくりしたんですよね。近所に『レノン』っていう店があるんですけど、そこで東京の出版社の人も交えて飲んでるときに、音がいいので、『あぁ、ビートルズいいよね』なんて言ってたら、そいつが『ビートルズとか聴いたことがないんですよ』とか言うわけ。まじめな顔して。え?って。大井さん、なんかお薦めがあったら、教えてください、とか言うから、ちょっと待て、と」

2店目の「箱崎店」にはカフェやベーカリーもある

世の中が圧倒的な情報社会になるさまを、自分の書店から見てきた。

「やっぱり、受け身だし、情報が多いだけに、『(これは)すごく大事』『これくらい知っとかないと』というものも伝わってない。本人に聞いてみると、恥ずかしいって思いもないわけ。ただの情報の一つだから」

「情報量が増えすぎちゃったことによって、何が大事かっていう比較基準になるものさえも、情報の海の中で消えちゃったっていう感じなのかな。語り部的な、重要なものを後世に渡す人間って大事。僕なんかは完全に老人になってるわけじゃなく、中間世代だからそういうことができるかな……なんてね、そんなこと思ってます」

(文・撮影:益田美樹)

「吹き飛ばされそうな波についていく。そんな感じの30年」

個人薬局経営 前田順子さん(61) 名古屋市中村区

前田順子さん

「ファーマシー大学堂」はどこの街角にもありそうな薬局だ。薬剤師の前田順子さんは1990(平成2)年からずっと、店頭に立ってきた。平成の最初はミニドラッグストアのようだったという。

「ここは私が生まれる数カ月前、父が創業したんです。私が店に出始めたころ、お薬、化粧品、日用雑貨、ベビー用品からペットフードまで、かなりの種類の商品を置いてて、それを扱うのに忙しくって。今はバックヤードとなっていますけど、奥まで商品がいっぱい。相談といっても落ち着いてやる相談ではなくて、『あ、ちょっと膀胱炎? どんなふう?』ってささっと聞いて、薬もささっと出すみたいな。この辺りは商店が多かったので、その方々が結構なお客様でした。でも、その商店が消えちゃったんですからね」

創業当時の様子。この写真は店内に飾ってある

「父が亡くなって、(今88歳の)母の助けも借りて、一人薬剤師として頑張ってきたんです。最近、長女がお店に加わりました。34歳ですね。説得なんて、全くしてない。絶対来ないと思っていて、本人もそう言ってましたし。自分で細々とやって自分で終わるって考えてました。(長女は)やっぱり門前の小僧じゃないですけど、やれば何となくできちゃうんですね」

チェーン展開する大手のドラッグストア。ライバルは数知れない。そして2018年秋、決断した。平成の終わる直前の2019年2月に、調剤はしない「薬屋さん」(店舗販売業)に業態を変える。

「元号が変わるって、すごく大きなことですよね。あと数カ月。だったら、それまでになるべく、いろんな荷物は少なくして……。そう思っていたら、近い将来やめようと思っていた調剤が(ある事情で)やめざるを得ない状況になって。ここでやめた方が経営的にも楽だ、と」

街角に立つ「ファーマシー大学堂」。この小さな店も時代の波に洗われている

「これからは健康相談が主ですね。病院にかかっててもすっきりしない、ちょっと胃腸の具合が悪いけれど病院に行くまでもない。そういう方に対応するお薬や健康食品をお出しして。場合によっては、病院で受診してください、ってお話しして。高齢化で、健康に関してもどこに相談したらいいか分からない人が、あふれてくると思うんです。調剤で多くを学ばせてもらいましたから、その分、今後はご相談で本格的にお役に立てるんじゃないか、と。平成の最初に比べると、そうですね、医療費の負担が上がって、自分でできることは自分でしなさい、みたいな風潮が帰ってきた。たった30年の間に、もう吹き飛ばされそうないろんな波が来て、家業としての薬屋を成り立たせるために何とかついていく、という感じだったですね」

(文・撮影:益田美樹)


【連載・「わたし」と平成】
平成が終わろうとしています。都会や地方、職場や家庭で日々を生き抜く人々には、それぞれに忘れられない思い出や貴重な体験があります。有名無名を問わず、この30年を生きたさまざまな人物に焦点を当て、平成とはどんな時代だったかを振り返ります。本連載をまとめた書籍『「わたし」と平成 激動の時代の片隅で』は3月26日刊行。