東日本大震災は言うに及ばず、「平成」は自然災害の時代だった。阪神・淡路大震災のとき、3歳で母を亡くした男性はいま、27歳。「もちろん悲しい出来事だったけど、震災がなかったら出会ってなかった人もいる」と言い、ビジネスとボランティアの世界で走り回る。自然災害に限らず、この30年間で多くのものが消え、変わり、生まれた。そんな渦中にいた人々がそれぞれの「平成」を語った。(Yahoo!ニュース 特集編集部)
「『さよなら』以上の『はじめまして』があった」
阪神・淡路大震災遺児、会社員 中埜翔太さん(27) 神戸市
阪神・淡路大震災の起きた1995(平成7)年1月17日、中埜翔太さんは3歳だった。祖母の家で被災し、母親を亡くした。27歳の今もあの朝を鮮明に覚えている。
「朝5時46分が震災の時間なんですけど、僕、お母さんと起きてて。木造の2階建ての1階台所で(母方の)おばあちゃんが朝ごはんの支度をしてくれてて、その光景も浮かぶんです。ただ、母親の顔だけがその記憶からなくて」
「一気に揺れがきて、天井から砂がバアッと降ってきて、身動き取れない状態に一瞬でなった。赤土のにおいかな、独特の土のにおいが今も鼻に残ってて。今も街で似たようなにおいがすると、記憶がよみがえるんです。ほんまに一つも光がない状態で、体も動かへんし、すごく怖くて。おばあちゃんの声が聞こえて、僕に『耳ある? 鼻ある? 目ある?』って。その後、仕事場から走ってきたお父さんが、いつもの灰色の作業着で上から叫んでて、引き上げてもらった」
「あしなが育英会」によると、中埜さんのように親を亡くした遺児はこの震災だけで573人。中埜さんを支えたのは、第一に祖母。そして、同育英会が運営する震災遺児の心のケア施設「神戸レインボーハウス」だった。
「僕は父方のおばあちゃんに引き取られて、そのときから母親代わりですね。まだおばあちゃんも結構若くて、50歳。『4人育ててきたし、5人目くらいいけるやろ』って。まじで、こんなありか、ってくらい自由でしたね。週末や大きな休みには旅行に連れていってくれて。『両親ご健在の家庭と遜色ないまではいかんけど』と興味あることは全部やらせてくれた」
「小学校の授業が終わったらすぐにレインボーハウスに行く、っていうのが日課でした。もう、ほんまに職員さんがお父さんお母さんでしたね。こんなあったかい場所はない。学校で『親亡くしてる、かわいそうやな』とか『大変やな』とか思われるのも嫌やった。そんなこと関係ないんですよね、ここに来たら。僕はかわいそうなやつじゃないし、みんな同じやし」
高校・大学生のとき、あしなが育英会の活動で、震災遺児と交流を重ねた。中国の四川大地震、ハイチ大地震、東日本大震災。
「(中国やハイチで)親を亡くした子どもたちが集まって、お互いの経験を話す時間があった。通訳介してですけど、共通の気持ちを持ってれば通じるんや、と思って。僕が話せば耳を傾けてくれる。そこから外国語の勉強をしたいなって思って」
「僕、毎年3月11日、陸前高田に行ってます。(それ以外も含め)20回以上は行った。行くと、(遺児たちが)喜んでくれるんですよね。震災っていう悲しい出来事でできたつながりですけど、今後の人生でいやなこと、つらいことがあったときに、元気付けられるつながりになったら、って」
大手電気メーカーに就職し、今は広島県で働く。人生の岐路には常に「震災」があった。
「人格からライフプランから何から、全て震災が起点かもしれないですね。自分を形成するうえでの3分の2.9は震災。『震災』は字面だけ見たら怖いな、悲しいな、ってなるけど、それがくれたものが自分にはあまりにも大きすぎて。今でも母親に会いたいと思うときはあります。もし生きてたら、と想像するときもあります。けど、震災がなかったら、レインボーハウスにも出合ってないし、おばあちゃんに育ててもらうこともなかったやろうし。1月17日は嫌な日ですけど、今の自分にとって、阪神・淡路はすごく大切な出来事でもあるって」
「平成に生まれてよかったと、強く思ってます。平成の時間の中で、僕の母親みたいに『さよなら』した人もいるけど、さよなら以上の『はじめまして』がいっぱいあった。僕、去年、母親の年齢を超したんですよ。お母さんのおかげでいただいた出会いが今の僕をつくってるんで、ありがとうって言いたいですし、今後どれだけのお返しができるか、見守ってほしいです」
(文・撮影:田之上裕美)
「どこにでもある映画館が、特別な場に変容する瞬間があるんです」
「新文芸坐」の支配人 矢田庸一郎さん(55) 東京・池袋
平成の時代に閉館し、再び開館した名画座が東京・池袋にある。昭和31年開館の「文芸坐」。平成9年に閉じ、20世紀最後の2000年=平成12年に「新文芸坐」に生まれ変わった。矢田庸一郎さんは2代目の支配人だ。
「(閉館は)老朽化ですね。跡地に建ったパチンコ店のマルハンの会長が文化に造詣の深い人で、『(文芸坐を)残していかなきゃいけない』と。私は、閉館時の支配人から『復活するから待っててくれ』と聞いてて、他の映画館でアルバイトしたり、情報誌の創刊に参加したりしてました」
「新しいビルができて、中を見せてもらったときには感慨がありましたね。映画館できたんだ、と。(旧館のように独立の建物ではなく)ビルのテナントになって、『ここに映画館入ってるんだ?』みたいな感じなんですけど、設備がすごく良くなりました」
人生は映画だった。
「映画が観たくて上京したんです。九州出身なんですが、地元じゃハリウッドの大作はやっても、ゴダールとかトリュフォーなんかはかからない。上京して初めて観たのはヴィスコンティの『熊座の淡き星影』。夢のヴィスコンティ、夢の岩波ホール」
「文芸坐にも通ってて。(あるとき)従業員募集の貼り紙が。すぐ履歴書を買って、出しましたよ。大学を中退してたんですね、私。映画ばっかり観て。普通は映画を作る仕事をしようとするわけなんですよ。日本映画学校を受験もして、ほとんど入りかけてたんですけど、文芸坐に勢いで入っちゃった。人生変わったのかな、そこで。ポスターを貼ったり、自動販売機のお金を数えたり。そういうところから始まって、20年経って支配人になった。20代から通っていた映画館で、映画に関わる仕事ができて、そりゃあうれしいですよ。映画館ならどこでもいいわけじゃない」
フィルム映画には100年以上の歴史がある。2000年代になると、そこにもデジタル化の大波が押し寄せた。
「私の経験で一番大きいのは、デジタル映写機を入れたことです。2013年。フィルムの時代が終わるなんて、思ってもみなかった。不安な日々でしたよ。デジタル映写機は高額で、小さい映画館ではなかなか(投資を)回収できません。導入したらしたで、パソコンみたいに突然フリーズしたり。オールナイト上映のときに止まったことがあって、技師が24時間対応の機材屋さんに電話を掛けたんですが、電話対応はしてくれても、夜中に来てはくれない。お客さんも帰れないし。別のプロジェクターでブルーレイを上映して、なんとか解決しましたが」
「2017年に大林宣彦監督が『花筐/HANAGATAMI』っていう新作を作って、若いころの作品から網羅した上映会をやりました。監督はがんが進行してると聞いてたんですけど、来てくださって。秋吉久美子さんとかいろんな方が応援に駆け付けてくれた。奥さんと娘さんも、スタッフもファンも。みんなで『がんばれ!』って声援を送るような会で。あぁ、興行の仕事をやってきてよかった、と。興行は、言ってしまえば届けられた作品を上映するだけで、映画を作ってるわけじゃない。でも、お客さんが作品に出合って、感動したり涙したりする場は映画館。どこにでもある映画館が、特別な場に変容する瞬間があるんですよ。それに立ち会えるのが私の喜びです」
(文:Yahoo!ニュース 特集編集部、撮影:岡本隆史)
「村はなくなったけど、清内路は残っとるでね」
最後の清内路村長 桜井久江さん(69) 長野県
「平成の大合併」では、3200余りあった市町村の半分近くが消えた。長野県南部の清内路(せいないじ)村もその一つ。2009(平成21)年3月、阿智村と合併して120年の歴史を閉じた。村の名は消えたが、山間のその地域には今も約570人が暮らす。
「ちょうど10年になるんだな。住民が合併を望んでいたし。合併協議で厳しいことを言われたけど、反骨精神で、よけい頑張れた。(合併の)協定書に署名したときも、これからが闘いだと思ったね。この地域をどうするか、というね。清内路は、合併して正解だったと思うね。不祥事と財政難で、徹底的にどん底だったもんで。夕張のように財政破綻すると言われてたでね。だから、合併して自立するという意識だったね。財政力とか、マンパワーとか、阿智村の力を借りてでも頑張ろう、と」
「試練がなかったら、『合併して損した』と言っとるかもしらん。合併して楽になれると思った自治体はだめなの。合併したら、よけい頑張らんと。そう私は言ってきたの。合併に至る過程で、試行錯誤しながら、勉強して、さんざん話し合いもしたもんで。(村民は)自分のこととして考えるようになったんじゃないかな。(行政の規模が)大きくなってくると、(自治は)他人事じゃないですか? ねえ? 誰かがしてくれるって。あのときは、自分たちしか、やる人はおらなんだ。それが原点」
合併後、地域の暮らしはどうなったのだろう。
「今年度は子どもが10人くらい生まれるって。活力がなくなるとか、住民の声が届きにくくなってサービスが低下するとか、300年以上続く手作り花火など伝統文化がなくなるとか……。一切ないね。村はなくなったけど、清内路は残っとるでね」
「平成というのは、いろいろ迷った時代のような気がするね。政府も迷って、いろんなことをしたけども。つくづく、小泉(純一郎)さんの改革って、何だったのかなと思うんだけどね。どこにいても同じサービスを保障する交付税に手をつけて、弱小の町村はそれでやられちゃって。『合併やむなし』という方向に走ったんだけれど、それが本当に正しかったかどうか、分からんね」
地域の伝統野菜「あかね大根」で造った焼酎が話題を呼んだ。
「明るい話題がほしいと思って生まれたのが『あかねちゃん』。いくら厳しいときでも、楽しいことがないと。『こんなまずい焼酎を造って』ってみんなに言われたけど、13年も続いたもんね。試飲会をしたら、役場中、漬物臭くなっちゃってね。ふふふ。『村長、こんなもの、ただでくれるって言ったっていらんわ』って」
「新作発表の『焼酎学校』を毎年開いているんだけど、村じゅうから来てくれるようになって。この数年、100人ほど参加者がおるんだに。私(が飲む焼酎)は最初のやつばっかです。清内路の厳しさとかね、汗と涙が混ざった味だもんで。あれが一番の味、うん。滑らっこくしちゃだめだね。清内路の人もそう。一刻あるもんね。あんまり角が取れちゃだめだね」
(文:飯田千歳、撮影:穐吉洋子)
「動物園はスーパーマーケットじゃない」
到津の森公園園長 岩野俊郎さん(70) 北九州市
「到津(いとうづ)の森公園」は一度消えた動物園だ。西日本鉄道運営の「到津遊園」が2000年に閉園すると、市民の後押しもあって2年後に都市公園として復活。岩野俊郎さんは中断を挟んで半世紀近く動物と一緒にいる。
「いつも動物園のどこにいるかって? 僕、もう、ずーっと机にいる。園内を回るとね、職員にああしろ、こうしろ、となるんで。僕ができるのはベースづくり。飼育員には自分の思いを発揮してほしいからね」
「昔と違って、飼育さえできればいい、っていう時代じゃないのね。自分たちの気持ちがお客さんに伝わる方法ってあるじゃない? 手書きのキャプションもだし、ゴミ一つ落とさないというのもそう。写真を撮ったときに、道具を写さないっていうのもそうでしょ。できる限り、お客さんを意識する。それがベースやからね」
前身の施設では、1969年に79万人の入園者を記録した後、減少が続き、長く採算ラインを割っていた。同じく再生を果たした北海道の旭川市旭山動物園の小菅正夫元園長とは盟友だ。
「拡大再生産の時代だったと思うんだよね。動物が割と自由に手に入っていたから、たくさんの動物を集めれば、たくさんの人が来るんだ、って。そう思ってた。だから、大きな動物園、たくさんの動物を持っている園がうらやましかったね」
「閉園が決まったとき、僕はもう(動物園の仕事は)辞めるつもりだった。山が好きだったんでね。そのころ、山の近くに西鉄が持ってるホテルがあったから、あそこの支配人いいよなぁ、行かせてくれんかなー、なんてね。(再開後の園長にと)北九州市から話があったとき、えぇー俺?とか思ったもん」
「(旭山動物園を再生させた)小菅たちと違っててね、(閉園や新園長就任の)話は突然だった。新しい動物園構想なんて、自分で持ってなかったんよ。でも、市から計画をもらったときに、もう箱物行政では人は呼べないよって思った。一番大事なのは、小菅たちがあの新しい動物園をつくったときの気持ちをね、こん中に込めることやないかって」
今は約100種、500の動物たちが暮らす園を、職員34人と運営する。
「僕のやり方は、この動物園をどのように愛してもらえるか、ってこと。全ての階層の人たちにね。カップルとか、男の子同士、女の子同士とか。動物園って、たくさんの商品を入れればいいっていうスーパーマーケットじゃない。対面で仕事をする小売商だね。閉園したとき、市民のね、残してほしいものの半分は動物で、もう半分は緑だった。うちの園内、見て。植物園?っていうくらい植物が多いでしょ。最近、女性同士とかも多いの。幅広い層に来てもらって、市民の生活の質を上げるのが、僕らの今の目標だね」
(文・撮影:益田美樹)
「教育の力を信じたい」
教育コーディネーター 武田緑さん(33) 大阪市
被差別部落に生まれた武田緑さんは、人の多様性と自由の大切さを子どもたちに伝えている。「教育から社会を変える」がモットーだ。
「中学校のとき、学校の壁に差別落書きがあったんです。『しょーもないことするやつ……』と、私はケッって思ってたんですけど、同じ部落出身の友だちが泣いてて。腹が立ちましたね。自分が傷つくのが嫌というより、誰かが傷つくような状況をなくしたいと思いました」
「私は部落で生まれて、それを自分のアイデンティティとーして持ってます。経済的にしんどい家庭も多かったし、在日の人も住んどった。いろんな人がいて当たり前。学校は人権教育が盛んで、たくさん差別や社会問題を学びました。遠くの話じゃなく、自分のこと、友だちのこと。私の根っこは地域と学校で育てられた」
「ピースボートで世界一周の最中、船でいろんな話をする機会があったんです。若者同士で生き方を語り合ったり、リタイア後のおじいちゃんと政治についてしゃべったり。ガチな議論も多くて。私は『自分は意見を言える』と思っているから、いろいろ発言した。そしたら、生まれて初めてまともに反論を受けて。しかも全然返せない。『ああ、自分の意見じゃなかったんやな、周りの大人の意見をうのみにして同化していただけなんや』と気付いて、めっちゃショックでした」
「異なる意見の人と議論や対話をする、物事を多角的に見て自分の考えを再構築する、それをやってこなかった。自分の頭で考えて、意見を持って話し合うってすごい大事。で、今度は日本の学校にそういう機会がないことが気になりだして」
日本にも世界にも多様な教育があると知り、10年間、あちこちの教育機関を見て回った。
「印象に残っている学校の一つが(和歌山県の)きのくに子どもの村学園です。ビオトープをつくってた子たちが『今の活動予算じゃ足りなくて、増やしてもらうためのプレゼンを用意してる』と話してくれた。これやな、って。自分のしたいことが分かってて、状況も見れてて、そのうえで周囲の環境に働き掛けができる。自分たちがアクションを起こしたら環境を変えられるかもしれない、そう思ってるということだと感じて。そこに教育の可能性がある、と」
「今、日本の学校はすごくしんどい。先生もほんまに多忙。めっちゃ大変です。でも、大人自身の働き方を変え、学びを変えようと取り組んでいる人は着実に増えてきている。『自分の頭で考え、変えたいことは変えよう。学校も社会もみんながつくっていく場所やで』というメッセージを、みんなでもっと発信したい。私は教育の力を信じたいと思います」
「差別や貧困がなんで問題かというと、生きたいように生きられなくさせるからです。貧困の連鎖から抜け出すチャンスをつくりだすことも、この社会には多様な人がいるっていう感覚も、『それって変やん』と反応できる感覚も、違う立場の人と対話する力を育てることも、教育にはできると思います」
(文・撮影:後藤勝)
【連載・「わたし」と平成】
平成が終わろうとしています。都会や地方、職場や家庭で日々を生き抜く人々には、それぞれに忘れられない思い出や貴重な体験があります。有名無名を問わず、この30年を生きたさまざまな人物に焦点を当て、平成とはどんな時代だったかを振り返ります。本連載をまとめた書籍『「わたし」と平成 激動の時代の片隅で』は3月26日刊行。