田之上裕美

「昔から一つも変わってないんです、自然の営みは」94歳の助産師 見守り続けた命

2018/12/31(月) 7:31 配信

「人の考え、社会の環境はいろいろ変わってきたように見えてもね、昔から一つも変わっていないんです、自然の営みは」。和歌山県に住む国内最高齢の現役助産師は、堂々とそう言った。変化が激しい平成の時代も変わらず、ひたすら命を取り上げてきた30年だったという。助産師のほか、ホテルのドアマン、灯台守、そして命の最期に立ち会う遺品整理業者。「見守り」を続けた人たちが「平成」を語る。(Yahoo!ニュース 特集編集部)

「お母さんに抱かれてお乳をもらう。それが赤ちゃんの願い」

国内最高齢の助産師 坂本フジヱさん(94) 和歌山県田辺市

坂本フジヱさん

94歳の現役助産師・坂本フジヱさんは、5000人近い赤ちゃんを取り上げてきたという。昭和から平成にかけて70年以上、出産と子育ての現場にいる。

「3年前ぐらいから(ここで出産する人は)急速に減ってきましたね。若い人たちがいなくなったんです。大きな都会へね、仕事を求めて出ていった。この小さな村ではね、若い人たちが働ける場所がないですね。ですから、和歌山市から大阪、大阪よりも東京へ出ていってね」

「それに結婚する人が少ないです。男の人も一人が多いし、女の人も付き合ってる人がいてるのに結婚しない。で、結婚しても赤ちゃんをつくらない。将来の生活の不安ですね。子どもを育てたら必ずその子どもが自分たちの最期を看取ってくれる、っていう保証がない。だから、もうそれだったら、自分が働ける間に働いて、お金をためて施設で終末を終わろうというような考え方が多いんです」

赤ちゃんをあやす

日本の総人口は2008年をピークに減少に転じ、2053年には1億人を割り込むと予測されている。

「もう本当に、昔の家庭という形はなくなってきましたね。母親が愛情を持って赤ちゃんを1年育ててくれたら十分なんですけどね。それもできない。おじいちゃん、おばあちゃんに任せて、自分は仕事。その時々の社会の環境で仕方ないことやと思ってますけど、私としたら、やっぱり1年間は手塩にかけて子どもを育ててやっていただきたい。それでないと、子どもがまろやかな心でね、育ちにくいんです」

「子どもは何を目標に生まれてくるかっていうたらね、お母さんに抱かれて、お乳をゆっくりもらって、生きたい。そういう希望を持って出てきて、自分は一生、何か人の役に立つ仕事をして終わりたい、と。その気持ちは最初から十分持ってるんです。それにふさわしい子育てをお母さんはできてないように思います」

出産の現場は「家」から「病院」へ移った。

「昔は、取り上げ婆(ばあ)さんが各部落におりました。ほとんどの村々、町々で、みんな自分の家で産んでた。お産の経験のある人が来て、お手伝いして、それでころっと出て終わりなんです。その人たちの手に負えんお産になってきたら、旦那さんが自転車に乗って、私たちを呼びに来る」

「坂本助産所」の看板の前で

「戦後アメリカの指導下で、マチソンさんちゅう、向こうの看護課長さんみたいな人が来て、『納戸みたいな不潔なところでお産したらいかん、入院させなさい』と。昭和40年ごろからほとんど病院での出産。お産って、自然のものやと思う人が少なくなってきた。病気の中に組み込まれた。だからお産が大げさになっていくんです」

「私の母親なんかはね、産婆さんに関わったお産ないです。自分一人で出てくるの待って、ほいで、仕事してて、出てくるんです。2日くらい寝たらもう起きてますね、当時は。お産は、ごはん食べて、うんこしてっていう一日の動作に組み込まれたものなんですね」

母親の相談に乗る

「(人間は遠い昔)細菌、バクテリア。それが自分の『素』。そこから38億年かけて、人間の形になってるんですからね。子宮の中で10カ月って言うけどね、1週間に1億年の進化を遂げてるんです。確実に一点の間違いもなしに、なぞってるんです。だから妊娠の10カ月間とその後の1年はね、(赤ちゃんは)神、仏の領域です。物言わない赤ちゃんは、神さんやと思ってます」

「表面的にはものすごく、今生活してるわれわれの気持ちが変わってるように思う。でも、中心、つまり、自然の営みは変わってないです。昔から一つも変わっていないんです」

(文・撮影:田之上裕美)

「『お父さん、元気?』って、今でも言っていただくんですよ」

帝国ホテルのドアマン 富田秀弥さん(49) 東京・内幸町

富田秀弥さん。帝国ホテルの玄関で

帝国ホテルは明治期、日本の迎賓館の役割を担って開業した。平成の現在も、国内外の要人が多く利用する。富田秀弥さんは「伝説のドアマン」だった父に憧れ、1991(平成3)年に入社した。ドアマン歴16年。

「子どものころ、母に連れられてホテルに父に会いに行ったんです。外国人のお客様に英語で応対していて、かっこよかった。父は約3000人のお客様の顔と名前を覚えていて、当時の首相はじめ政財界トップの方から親しまれたそうです。私がドアマンに配属されたとき、『君、富田さんの息子さん?』って、お客様からずいぶんと声を掛けていただきました。今でも『お父さん、元気?』って言っていただくことがあるんです」

「われわれの仕事は、ほんの一瞬の勝負なんです。ドアマンがお客様と接するのは、車のドアから玄関までわずか数メートルしかありません。ご婦人が降りられるときは、『私なんかでよろしければ』って手を差し出すと、『あら、いいの?』なんて、喜んで握ってくださいます」

親子2代で帝国ホテルのドアマンに

「車の数ですか? 日に多くて4000台ほどです。2000人ぐらいの宴会だと、黒塗りの車が400台、タクシーが500台ほど並びます。お客様の顔と名前と車のナンバーが頭に入ってるのは 1000人ぐらいでしょうか」

「タクシーの運転手さんも、名前を覚えてお呼びかけするようにしています。運転手さんが気持ちよくお客様を乗せてくだされば、運転手さんもお客様も私も、みんなハッピーですので。どのような方にも分け隔てなく全身全霊で、って父から教えられました。ああ、そうだなあ、と思って、ずっとそう心掛けています」

日本を代表するホテル

「女性の役員の方が増えた印象がありますね。少し前までは、社用車でお越しになるのはダークスーツの男性ばかりでしたけど。日本の企業も少しずつ変わってる感じがします。男性の方にお声を掛けるときよりも、少し声のトーンをやわらかくしてお迎えするようにしています。パーティーのためにドレスアップしていらしたときは、『素敵ですね』『お似合いです』って、ついお声を掛けてしまいます。ホテルって、クサいセリフが似合う場所なんです」

災害時、ホテルは避難所になる。東日本大震災のときは勤務中だった。

「揺れた瞬間、ああ、今日は帰れないな、と思いました。(2007年の)新潟県中越沖地震のときもそうでしたから。『中のほうが安全ですので』と、表で立ちすくんでる方々をロビーに案内しました。玄関前にもタクシー待ちの長い行列があっという間にできました。『丸ノ内線は動いてます』など、公共交通の情報をマイクで深夜までお伝えしました。結局、私は1時過ぎに帰宅しましたが、地下鉄で家にたどり着いたときには午前3時を回ってました」

「震災直後は稼働率が3割ほどまで落ち込みました。今ですか? 8、9割ほどですね。本当にありがたいことです。外国人のお客様の宿泊が6割を超える月もあります」

笑顔を絶やさず

富田さんに会うために、わざわざホテルを訪れる人たちがいる。

「大変うれしいことに『ちょっと顔を見に寄ったよ』と言ってお立ち寄りくださるお客様がいらっしゃいます。若いころからそのようなお客様に恵まれてきました。『気持ちがふさいでたけど、あなたの顔見たら忘れちゃったわ』なんて。『あなたがいるから来るのよ』と言ってくださいます」

「食事に誘っていただいたり、お土産をいただくこともありますが、お客様とは一線を引いてます。お返し? いえ、いたしません。かえって失礼にあたるのでは、と思うからです。いついらしても心を込めてお迎えするのが、恩返しといいますか……。ですが、だからこそ、だからこそなんだと思います。ずっと会いに来てくださるのは」

(文:三宅玲子、撮影:鬼頭志帆)

「誰かの役に立っていると、当時はなかなか思えなくて」

元灯台守 濱野満さん(60) 長崎県

濱野満さん。現在は門司海上保安部次長。灯台の保守管理などに使う灯台見回り船「しまひかり」の上で

日本最後の有人灯台だった長崎県の女島灯台が2006年12月、無人化された。濱野満さんはそこで灯台守として、海を照らしてきた一人だ。

「女島が自動化すると聞いたとき、よかったと思いました。すごくよかったと。寂しいとは思わないんです。人がいなくなるのは、私はもう、本当にいいと思います。時代を経て、変わっていくのは仕方がない。私は滞在でしたが、その前は家族で住んでいたんですよね。時代に合わせて灯台も変わってきたんです。滞在箇所の解消の方針は昔からずっとあったんですよ」

「女島灯台は東シナ海にあって、政策的な意味合いも多分にあったと聞きました。以前から灯台で、中国漁船とかサンゴ漁船の監視をしていて、私たちがおるときも中国船とか台湾船が来てました」

「島という島の灯台はほとんど行き尽くした」

灯台は海を照らすだけではない。

「女島の勤務は、海上保安学校を出てすぐだったんですよ。昭和58年3月から61年3月まででした。勤務は4人で2週間交代で。女島は(長崎県)五島市から80キロくらいの離島で、船だと5時間くらいかかった」

「1日8時間勤務、当直で3交代なんですよね。灯台の出力調整をしたり、燃料の補給をしたり。それから無線機が24時間動いてますので、それの管理。気象観測もありました。9時、15時、21時、3時に、雲とか気圧とか気温とかを気象庁に送る。船舶気象通報という灯台からの気象の放送もやっていました」

「生活はつらかった。水は灯台の屋根、運用舎の屋根。いたるところから集めて、飲み水のタンクにためてね。洗濯とか掃除用の雑用水はポンプがあって、前浜の井戸からくみ上げた。その井戸、ほぼ塩水なんですよ。水はとにかく貴重。今みたいにミネラルウォーターを持っていくとか、そういうのもなかったんです。離島で病気になったら大変やから、健康には気をつけないかんという現実もあるんでしょうけど、真水をね、飲んだら下痢をして、1週間以上もどうにもならなかった工事の方もおられました。なんの病気になるかも分からん」

上空から写した女島灯台(提供:第七管区海上保安本部)

「私は灯台守としては、淡々と仕事をしてきた。やっぱり(1勤務で)2週間は長いので、(本土側の同期の)みんなは何をしてるんだろうかという不安のほうが大きかったかもしれない。光を、灯台を守っているから誰かの役に立っているとか、当時はなかなかそこまでは思えなかった」

2年前、久しぶりに女島に上陸した。たった4〜5時間の限られた滞在。機械の部品を交換するなど保守管理に当たった。

「人がおった灯台に行くのが年2回とか3回くらいになると、やっぱり荒れてきますよね。人の手も、お金もかけない。2〜3メートルあった道路が、もうわずか人が一人通れるくらいになってしまう。そんな寂しさもありますけど、毎日あそこにおる意味は、やっぱりなくなってきておるし、そういうふうに(自分の頭でも)整理されてるんで。灯台守はいなくなったと言いますけど、私たちは灯台がある限り、灯台を守るという灯台守の仕事はしています。やっぱり『目に見える』という安心もあると思いますので」

(文:Yahoo!ニュース 特集編集部、撮影:藤井ヨシカツ)

「若い人の孤独死が増えました。生き抜く力が乏しいのかな」

遺品整理 増田裕次さん(44) 東京・板橋

増田裕次さん

増田裕次さんは就活時、就職氷河期にぶつかり、一人でハウスクリーニングの会社を起業した。その後、時代の要請に応えるように業務を変化させ、今は遺品整理や特殊清掃を軸にする。超高齢化、都会の希薄な人間関係を日々、目にしている。

「『死後3カ月経ってるんだけど他にいなくて、やってもらえる?』って。人の死に縁起を担いだりしないんで、役に立つならいいか、と。25歳くらい。ハウスクリーニングの会社を立ち上げて(仕事の)声が掛かり始めたころでした。あれがなかったら今の仕事はなかったですね」

「(栃木県で暮らしていた)小学校高学年のころかな。隣のおばあさんが急死したんです。脚が2本、廊下に出たまま動かない。一人暮らしで、戸はいつも開けっ放し。『日常の中で死ぬ』とはこういうことなのか、って。住居の整理に親族が誰も来ないから、自分も家族と手伝いました。いま思えば、片付ける使命感みたいなものが芽生えたきっかけです」

さまざまな死と向き合ってきた

「まだ、僧侶が家に来て葬儀をやっていました。知ってます? 読経の間、亡くなった人が喉が渇かないように、お水を替え続けるんですよ。お線香の煙は道しるべだから消さないようにとか。子どものころから僧侶に聞いてました。入院しても最期は家で死ぬのが普通だった。今は自分が代わりに掃除をやって、そこに住んでいた人が無事にあの世へ行けるといいなと思っています」

死後、長い間放置される孤独死。若い人も増えたという。

「賃貸で人が死ぬと、『汚されちゃって大変』って言う大家もいて。まずは『長年住んでくれてありがとう』でしょ? 家賃を手渡しにするとか、生存確認する方法を考えればいいじゃないですか。顔見れば、体調悪いとか分かりますよ」

「若い人の孤独死が増えました。お年寄りと若い人で6対4ぐらいの割合。若くても突然死や自死、精神的な病、餓死もあります。生き抜く力が乏しいのかな。貧困ばかりが原因じゃないですよ。老いて、ここで死ぬという覚悟をしている人は、日記やメモを残してるんです。『明日も生きるぞ』とか。亡き人の人生を見るから、若い従業員にはこたえますよね。(仕事先で)『関係ありません』『警察にいろいろ聞かれたくないから通報しなかった』という遺族や隣人の声を聞くと、自分はつらくなります」

遺品整理の前、まず亡くなった人に手を合わせる

「次から次へと現場があるから、とどまっていられない。がむしゃらと言えばそうですけど。就職氷河期世代だから、仕事は大事。断りたくない。仕事中は、手順や時間配分を考えています。でもね、体は素直に反応するんです。においで吐いたり、目にした物で涙が出てきたり。不思議ですよ」

さまざまな死を受け止め続ける。

「ボーダーコリーとパピヨン、犬2匹と暮らしてます。ほんっとかわいい。疲れが吹き飛びますよ。自分も最期は病院より自宅がいい。誰もが迷惑かけずにぽっくり死にたいと思っている以上、孤独死は増えるでしょうね。今は、生前に遺品整理を契約する人が増えています。紛争地に行くカメラマンとか、断捨離したい方とか。生き方は人それぞれ。どんな死に方をしても受け止める。『大丈夫、あとは心配しないで』とね。感謝とか見返りを求めてちゃ続けられない。自分が最後の受け皿になる。そういう覚悟です」

(文・撮影:穐吉洋子)


【連載・「わたし」と平成】
平成が終わろうとしています。都会や地方、職場や家庭で日々を生き抜く人々には、それぞれに忘れられない思い出や貴重な体験があります。有名無名を問わず、この30年を生きたさまざまな人物に焦点を当て、平成とはどんな時代だったかを振り返ります。

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