「前はね、3人くらいで並んでしゃべっている女の人もいたけど、もうね、じっとしてる人を見なくなった。ゆったりしてるところがないの」。東京・新橋の駅頭で靴磨きを続ける87歳の女性は、そう語る。大都会の雑踏で足元から「平成の30年」を見守った人たち。靴磨き、ラジオドラマの脚本家、ウィンドーディスプレーの制作者、老舗喫茶店の店長、立ち飲み居酒屋の女将。「平成」最後の年の瀬と新年を前に、ペンとカメラを持って雑踏に出た。(Yahoo!ニュース 特集編集部)
「どんなに古くても磨けばきれいになる」
靴磨き 中村幸子さん(87) 東京・新橋
かつて都内には、路上で靴磨きをする人が多くいた。平成に入ってその数は減り続け、今ではほとんど見掛けない。中村幸子さんは47年間も新橋駅前に座り、靴を磨いてきた。
「朝はね、9時半くらいからよ。午前中はパーッとお客来るんです。1日そうね、30人くらいは来るね。なんだかんだで夜までね。新橋でご飯食べて、家着くともう9時半か10時ごろになっちゃう。寝るのは、いつも11時過ぎだもん。マツコ見て寝るの。テレビでやってるでしょ? 何番だったかな。あれ面白いわね」
「人の流れが速いわねぇ。みんな、足が速くなったわね。ゆっくりする暇がないんだか、ちゃっちゃちゃっちゃ通りますよ。前はね、この辺で、3人くらいで並んでしゃべっている女の人もいたけど、もうね、じっとしてる人を見なくなった。ゆったりしてるところがないの。一生懸命だから足も速くなるのかね」
「今はみんないい靴履いてるわね。イタリーとかスペインの靴とかね。きれいよ。昔は違うの。汚れてるから来るの。悪い靴でも磨いたんだけど、今はいい靴ばっかり。いい靴履いてるけど、もっとよく見せたいっていう人が多いのね」
「女性のお客、増えたわね、最近。10年くらい前から。でもひとりもんが多いの。30でも40でも結婚したことないっていう人が多いわね。なんでかしらね。今、男の人はね、『奥さんが(靴)磨いてくれない』って。『外で磨いてらっしゃい』って言われるんだって。磨いてくれる奥さんもいるみたいね。でも『きれいに磨かないんだよ』って言うから、『それ言っちゃダメよ』って。奥さんがっかりして磨かなくなるから。『きれいになった』って言っときなさい、って言うの」
客から悩みを聞くことも多いという。
「子供ができないだの、借金だらけだのってね。よくね、電車ね、毎日のように人身事故あるでしょ? 暮れになると必ずあるもの。人間ね、やっぱり死んだらいいことないんだからね。『生きてね』って言うの。『コツコツ、一生懸命生きてね』って。私だって苦労したんだよ。今でも苦労だよ、ふふふ。他人は良く見えるのよ、他人は。でもみんなそれぞれね、悩みがあるの。私はこんなとこ座ってね、みじめだなと思ったけど、今は思ってない」
「靴はね、大事に履きなさいって私言うの。どんなに古くても、磨けばきれいになるから。まだ履けるから。底が大丈夫なうちはね、少し破れたって、磨けばね、元通りに近いようになるんだから」
中村さんは靴墨を素手で塗り込む。手は真っ黒だ。
「黒くなんなきゃ商売になんないでしょ。こんなのね、洗えば落ちるのよ。手の汚れは洗えば落ちるけど、人の心の汚れは落ちないのよ。お客さんがきれいになれば、私は汚れようがなんだっていいのよ。私の名前は幸子。幸せな子。だから、幸せにしたいの。みんなを幸せにして、自分が幸せになる。みんなが幸せにならなかったら、私も幸せになれない。平成終わったって、仕事やりますよ。いつまでって? 死ぬまでよ」
(文・撮影:廣瀬正樹)
「3.11以降のプレッシャーは大きかった。『絆』を強く求められて」
ラジオドラマ脚本家 北阪昌人さん(55) 東京・神保町
北阪昌人さんは、13年続く「NISSAN あ、安部礼司~BEYOND THE AVERAGE~」(TOKYO FM系列全国38局ネット)の脚本家だ。毎週日曜日夕方5時、人気のラジオドラマ。東京・神保町を舞台にごく普通のサラリーマンの日常をコミカルに描く。
「リスナーから、『小学生のころ父親の車の後ろで番組を聴いていたけれど、大人になって自分のスマホで聴いています』って言われて。うれしかったですね。今は『ラジオ=スマホ』。良いものを書けば、ちゃんと届く時代になりました」
「ドラマのオンエア中にツイッターを見て、『茶番だ』とか『脚本家のマンネリズムに飽き飽きした』なんて書いてあると、ギャフン、みたいな。歌手が歌っている最中に『ヘタクソ!』ってヤジ飛ばされるみたいなもんですよ。一緒に何かを楽しむライブ感を味わっていると思っていたら、違う人もいる。まぁ、当たり前なんですけどね。メールやハガキで放送後に来るのと違って、リアルタイムに視覚化されると、結構しんどいんですよ」
5年前まで、北阪さん自身も神保町でサラリーマンだった。二足のわらじで脚本を書き続けた。
「営業の仕事をしていたから、会食なんかで帰宅するのも1時とか。そこから朝まで書くという生活。通勤の1時間が惜しかったから、僕、満員の地下鉄で、左手でパソコンを抱えて。バッテリーが長く持つ重たいやつね。で、右手の人さし指で文字を打って。周りの反応? にらまれたり、舌打ちされたり。まぁ、そうですよね。それでもたった1行でも書けたら前には進む。(イヤホンでよく聴いた)ミスチルが外界の音を消してくれたなぁ。桜井さんの声がなかったら、あんな場所で集中できなかったと思います」
ラジオの世界に入って28年。一番大きな変化を感じたのは2011年だった。
「やはり3.11の後、大きく変わりましたね。『絆』や『心』を描いてほしいというラジオドラマの企画が多くなって。世の中がそういう空気に包まれていました。でもリアルにつらい体験をした人に、いったいどんなフィクションが必要か。伝えることの恐怖というか、自分が何を提示できるのか、ってものすごいプレッシャーで。震災を題材にしたものを書けるようになるまでに数年かかりました」
「僕は忙し過ぎて、ぼーっとする時間もなくずっと走ってきたんです。ドタキャンして人に嫌な思いをさせて、友情も失っていると思います。登場人物に感情移入していろんな人生を追体験しているけど、僕自身の人生は失っているんじゃないかと。最近、(平成の)30年振り返ったとき、それがすごく怖くて。僕の本当の人生っていったい何なのか。それをラジオドラマで描けたら、この30年の意味に決着がつくのかもしれないですね」
(文:伊澤理江、撮影:伊澤理江、廣瀬正樹)
「ディスプレーの連なりが景観になるんです」
「和光」のアートディレクター 武蔵淳さん(51) 東京・銀座
「和光」の大型ウィンドーは、時計塔とともに銀座のシンボルだ。横8メートル、高さ2.4メートル。和光社員でアートディレクターの武蔵淳さんは、平成2年の入社以来、そのディスプレーに携わっている。
「気に入ってる作品? 一つ挙げるのは難しいですけど、最近、話題になったのは2016年のクリスマスのディスプレーです。ウィンドーいっぱいのシロクマとその子供たちが眠ってる。ウィンドーに設置されたボタンを押すとシロクマが眠りから覚めるという仕掛けです。子供たちがはしゃいだり、たくさんの人がSNSに投稿してくれたり。『あそこまでたくさんの人が並んでるのは見たことない』と社内でも言われて。達成感はありましたね」
銀座は別世界の街だったという。
「学生時代は(文房具専門店の)伊東屋しか用がなかったです。喫茶店も値段見て、入れないなって。就職してからも、自分の生活感覚と銀座の華やかさとのギャップがあって。同期とご飯食べるときも銀座から離れてました。でも、高級な店でも見るのは自由ですからね。商品そっちのけで、天井や床をじっと観察。並木通りの海外ブランドがリニューアルしたときは、もちろんきれいだと思ったんですけど、一番感心したのはショーケースに鍵穴が見当たらないこと。キョロキョロしてたら警備員を呼ばれちゃいましたが」
「入社したころは銀行がたくさんありました。ディスプレーの世界で言うと、それは無味乾燥なスペースがいっぱいあるってこと。その後、銀行が減って、海外ブランドが出てきた。シャネル、ティファニー、エルメス……。彼らはウィンドーを(力を入れて)やってて、一方で、広告宣伝費が減らされ、とてもじゃないけどウィンドーを維持できないところがたくさん出てきたと感じています」
3.11のときは「空白のディスプレー」を作った。
「2003年には、人が歩いてる様子を表現したシンプルなディスプレーを作ったんです。スイスのビジュアル専門誌の編集長がこれを見て、表紙に採用してくれました。そのころから、シンプルなデザインこそが見る人の想像を膨らませるんだと思うようになって。極端に言えば、ウィンドーは空っぽでもいい。3.11のとき、何をディスプレーしようかと考え、今なら気負いなくできると思って、ウィンドーを空白にして、『あなたの思いを、聞かせてください。』とメッセージを送りました。これもディスプレーの一つの役割かな、と。3.11以降、命以上に大事なものってない気がしていて、生命感を意識するようになったかもしれませんね」
「自分で御三家って言っちゃいますけど、銀座に縁のある、明治時代からの企業で、自社のディスプレーを手掛けるデザイナーが社内にいるのは、資生堂、ミキモト、和光。私たちは『ディスプレーの連なりが街の景観になる』と考えてます。よく銀座をぶらぶらするんですが、街全体のバランスを見て和光のディスプレーにはこんな色がほしいとか、みんなが守りに入ってるからうちは攻めようとか。和光が銀座のランドマークであるべきだと思ってるからです」
(文:宮本由貴子、撮影:鍋島徳恭)
「最近になって、若い人が増えてきたんですよ」
老舗喫茶店の店長 村田克明さん(69) 東京・渋谷
「珈琲店トップ」は渋谷に3店ある。一番古い渋谷駅前店は、昭和27(1952)年の開店。村田克明さんが店長を務める道玄坂店も、昭和46(1971)年の開店という老舗だ。
「大学1年のときだったかな、アルバイトで入って。それから、コーヒー一筋50年。最初のころはコーヒー1杯100円、時給も100円。大学を卒業するくらいで社員になって、そのまま店長になりました。当時はね、なかなかコーヒー担当になれなかったんですよ。まずは洗い場、それからトースト、ホール、持ち運び、レジ。コーヒーをいれられるようになるまで、10年かかりました」
「トップ」では、一杯ずつサイフォン式でいれる。
「いれるところを目の前で見られるのが面白いでしょ? 新鮮な豆が生きた濃いコーヒーがうちの特徴だね。濃さが癖になって、他のコーヒーは飲めないってお客さんもいるんですよ。サイフォンは、一杯いれるのに約3分。昭和の終わりごろなんか、目が回るくらい忙しかった。1日500人くらいお客さんが来る日もあって。4人掛けの席が全部相席で、どんどん人が入れ替わる。よく見てないと、お金払わないで帰っちゃうんじゃないかって。店員も多かったね。何しろ食器も手洗いだし、製氷機だってなかったんですから。氷を買って、木の冷蔵庫に入れてたんですよ」
15年ほど経ったころ、別の喫茶店に引き抜かれた。
「当時はけっこう引き抜きがあったんです。高田馬場にある、同じサイフォン式の喫茶店に移りました。だけど、時代が変わっていろんな店が増えて、コーヒーだけではやっていけなくなった。すると、カレーをやったり、スパゲッティをやったり。僕はコーヒーがやりたかったから、(高田馬場のお店を)辞めようかな、と。そんなとき、トップの人に『今の年なら戻れるよ』って言われて、戻ったんです。50歳くらいだったね。帰ってきたら、そりゃあ前に働いていたころより、売り上げは厳しくなってました」
渋谷にファッションビル「109」ができたのは、昭和54(1979)年。平成になると、チェーンのコーヒー店が次第に増えていく。
「109ができたくらいから、街の雰囲気が変わっていった気がするね。個人商店が少しずつ減って。チェーンのコーヒーショップが増えて、お客さんは減りました。やっぱり安いほうがいいじゃない? 平成の最初のころは、まだゆとりがあって、みんなランチの後に550円のコーヒーを飲みに来たんです。そういう余裕のある人が減っていったのかもしれない。自分の中では、昭和の時代のほうが活気があってよかった。でも最近になって、若い人が増えてきたんですよ。昔お父さんが来てた、とかね。観光客も来て、みんなスマホで写真を撮ってる。やっぱり面白いんだろうねぇ、サイフォンが」
(文:Yahoo!ニュース 特集編集部、撮影:岡本隆史)
「みなさん、立派だなって思いますよ、お客さん見てて」
「ニューカヤバ銘酒コーナー」 服部容子さん(50) 東京・茅場町
金融・証券の街、東京・茅場町。その片隅に立ち飲み居酒屋「ニューカヤバ」はある。創業54年。サントリーのウイスキー「トリス」などの自動販売機は、創業時からのものだ。
「店は家族経営です。私が生まれたときからあって、小さい頃はここで遊んだり。母が仕込みしてたのも見てきたし、大きくなってからは店を手伝ったり。カウンター立つようになったのは8年くらい前からかな。この周りもチェーン店ばっかりになって」
「お客さんの8割はサラリーマンですね。茅場町は証券会社が多くて、印刷屋さんとか中小企業も多いので、いろんな人が来ますね。バブルはじけたときは、ここ、永代通りって言うんですが、『倒産通り』って言われてた。山一(証券)とか、いろんな証券会社が潰れて。うちは微々たる商売ですけど、一時期はすごく影響受けてお客さんが減りました。母も踏ん張ってやってました」
かつてはビールの大瓶を1人で5、6本飲む客、コップ酒を2、3杯あおってサッと帰る客もいた。
「お酒の量は減ってます。完璧に減ってます。昔のおじさんたち、すごく飲みましたから。健康志向っていうんですか? 喫煙率もものすごく減りました。今はアイコスとか。いい会社かそうじゃないかは、雰囲気で分かりますね。うちは上司も部下も相席。自分で好きに買って飲む店なので、食べ方や買い方に出るんです。若い子が『嫌だなー』って上司の話聞いてたり、楽しそうにワイワイやってたり」
先代の母・典子さんは今年10月に亡くなった。
「胆管がんでした。8月に見つかったときには、もう末期で。私とはけんかばっかでした。名物ババアだったんで、お客さんも心配して、惜しんでいただいて……。オリンピック2回目は見られなかったな。80だったんですけど、(亡くなる少し前まで)自転車で築地に買い物に行ってました。ほんと働き者。築地も移転が決まって、やっぱり時代が動いてるっていうんですかね、それを肌で感じます。引き際がはっきりしてるというか」
「平成は、私が20歳になってからの30年。みんな同じように年取りますね。母もですけど、人間いつかは死んじゃう。やっぱり、みんな今を生きてる。一生懸命やってたら、いいことも悪いこともあって。きっとサラリーマンの方は、嫌なこともたくさんしなきゃいけない。大変だろうなって。みなさん、立派だなって思いますよ、お客さん見てて。ここはおじさんたちの遊園地。疲れを落としてもらう場なので、気をつかうことのない空気感を大事にしたいですね。母に比べたら根性なしですけど、茅場町に来たらこの店があると思っていただけるように、続けたいです」
(文・撮影:廣瀬正樹)
[動画制作]廣瀬正樹、吉田直人
【連載・「わたし」と平成】
平成が終わろうとしています。都会や地方、職場や家庭で日々を生き抜く人々には、それぞれに忘れられない思い出や貴重な体験があります。有名無名を問わず、この30年を生きたさまざまな人物に焦点を当て、平成とはどんな時代だったかを振り返ります。本連載をまとめた書籍『「わたし」と平成 激動の時代の片隅で』は3月26日刊行。