武馬怜子

「こういうことはこれからもある」元BC級戦犯が残したもの

11/30(金) 6:09 配信

この8月、ようやく連絡先を探し当てた高齢の男性はスマートフォンの向こうで言った。「(父をめぐる出来事は)忘れました。ほっといてください。何も言いたくないんです」。懇願するような声だ。「本当に覚えていないんです。分かってくださいますか」……。敗戦国・日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は1945年の末から「戦犯」を次々と捕らえ、裁判にかけた。電話の主は、元被告の遺族の1人である。広く知られた A級戦犯の「東京裁判」ではなく、捕虜の斬首や虐待などの罪に問われたBC級戦犯の「横浜裁判(横浜軍事法廷)」。戦勝国・米国によって1000人以上が起訴されたその法廷は、ちょうど70年前の今ごろ大詰めを迎えていた。(文・写真:武馬怜子/Yahoo!ニュース 特集編集部)

BC級戦犯1000人超 捕虜の殺害や虐待で法廷へ

「蛮行、死刑に値す」――。

敗戦の年、1945年12月19日の読売報知新聞はそんな見出しを掲げ、前日に始まった「横浜裁判第1号」の様子を伝えている。「蛮行」とは、日本軍による捕虜の殺害や虐待を指す。敗戦濃厚だった時期、日本国内の捕虜収容所では、米兵らの首を斬り落とす「処刑」をはじめ、捕虜をいためつける「虐待」が多発していた。

BC級戦犯を裁く「横浜裁判」初日の様子=1945年12月、横浜地裁(アフロ/読売新聞)

横浜市の桐蔭学園に移設・復元された横浜裁判法廷。大学法学部の学生模擬裁判などの授業で利用されている(撮影協力・学校法人桐蔭学園)

横浜裁判が始まった当時、ほんの数カ月前まで「軍」を賛美し、戦争を煽ったメディアは既に大きく方向を変え、戦犯となった元軍人らへのバッシングを強めていた。横浜裁判を主導するのは米国。合計で1039人が起訴され、有罪率は実に82%。「絞首刑」判決も123人に達し、実際に51人が絞首刑を執行されている。

スマホの向こうで「覚えてませんから」と取材を拒んだ高齢男性の父親も、そうしたBC級戦犯の1人だった。戦時中は、中部地方にあった捕虜収容所の監視員。そこで捕虜の米兵を虐待死させたなどの疑いをかけられ、裁かれたのである。求刑は死刑、判決は終身刑。1951年に釈放されて故郷に戻っている。

絞首刑や終身刑を言い渡されたBC級戦犯でも、再審での減刑や釈放によって社会に戻った人たちは少なくない。そうした元戦犯たちは身内や周辺に何かを語ったのだろうか。次世代に伝えたいものがあったのだろうか。

「絞首刑」を言い渡された父の日記

文具品などを販売する株式会社「TOHJI(とうじ)」の事務所は、福岡市繁華街・天神の真ん中にある。ビルの2階でエレベーターを降りると、白い扉が一つ。今年9月中旬、その扉を開けると、同社会長の冬至克也さん(64)が待っていてくれた。

父・冬至堅太郎氏について話す三男の克也さん

克也さんの父・冬至堅太郎氏(故人)は、BC 級戦犯として被告席に立たされた元陸軍大尉である。堅太郎氏が裁かれた事件は「西部軍事件」と呼ばれ、横浜裁判の中でも際立つ存在だった。日本刀などを用いて「処刑」した米兵の数、起訴された日本軍関係者の数。そうした「数」の問題だけでなく、誰が誰に「処刑」を命じたかといった責任の押し付け合いも法廷の内外で続いた。

その父の日記を公開することに決めたのだという。どこかに寄贈したいとの思いもある。

「日記は前からあったんですけど、経年しているので紙が劣化しています。全部で9冊です。公開は今年になって、初めて外部に見せました。貴重な資料なんで」

巣鴨プリズンに収監中の福岡県出身の戦犯ら。面会の親族らとつかの間、再会した=冬至堅太郎氏のアルバムから

堅太郎氏の思い出を語る克也さん。手前は孫にあたる冬至竜介さん

克也さんが日記を広げてくれた。青い表紙のファイルが8冊、クリアファイルが1冊。それぞれにトレーシングペーパーや和紙が綴じこんであり、どの紙にも几帳面な文字がぎっしりだ。英語やイラスト、新聞記事の切り抜きを貼った箇所もある。

日記の最初は1946年8月13日だ。堅太郎氏はその数カ月前、GHQの指令で動いた警察に逮捕され、東京の巣鴨プリズンに移送。横浜裁判では「絞首刑」の判決を受けた。その後、再審で終身刑に減刑。さらに、日本の主権回復に伴って1956年に釈放され、郷里の福岡に戻った。

日記はそうした日々の中で記されたものである。斬首によって米兵を「処刑」したときのこと、法廷で感じたこと、巣鴨プリズンでの暮らし……。聖書や仏教について論じている箇所もある。最後は1952年10月。およそ3000ページにもなるという。

堅太郎氏が残していた日記。巣鴨プリズンなどで書き続けた

敗戦間際 捕虜の米兵を斬首で「処刑」

「西部軍事件」とは、九州地方などを管轄していた旧日本陸軍西部軍管区の軍人らが引き起こした事件で、横浜裁判の審理は、70年前の1948 年10月に始まった。米軍機の搭乗員だった捕虜約33人を3回にわたって「処刑」したという内容だ。陸軍の定めた捕虜に対する裁判「軍律会議」を経たかどうかなどが焦点となり、日本側は処刑執行人ら32人が起訴された。

国立公文書館などに残る横浜裁判の資料によると、第1事件は1945年6月20日だった。現在は小学校となっている福岡市内の場所で、日本刀で首を斬り落とすなどして捕虜8人を殺した。第2事件は敗戦5日前の出来事で、犠牲者は捕虜8人。空手や袈裟斬り、斬首などによって殺害した。第3事件は敗戦を告げる「玉音放送」の後に起きている。それまでの処刑に関する証拠隠滅のためだったとされ、捕虜16〜17人が斬り殺された。

堅太郎氏の写真アルバム。自らが収容されていた巣鴨プリズン(東京都豊島区)が写っている。左上の写真には「SUGAMO PRISON」の文字が見える。太平洋戦争開戦時の首相だった東条英機陸軍大将らA級戦犯もここに収容されていた。この土地には現在、東京・池袋のランドマーク「サンシャイン60」が立っている

日記を残した冬至堅太郎氏は第1事件に関わっており、米兵4人を斬首した。いったい、堅太郎氏はどんな行為に手を染めたのか。公開されている裁判記録や横浜市が保存している「桃井銈次家資料」などによると、こんな様子だった――。

1945年6月19日、福岡市は米軍の激しい無差別爆撃を受けた。「福岡空襲を記録する会」の資料によると、焼失面積は12.5平方キロメートル。朝鮮半島と結ぶ要衝だった博多港では建物の30%が焼失し、市内全域で1000人以上が死亡・行方不明になったという。

福岡市内の西部軍司令部にいた堅太郎氏は翌朝、母を捜して市内を歩き回った。遺体のほとんどは老人、女性、子ども。無残な亡骸の中からついに変わり果てた母を見つけた。

横浜裁判の後、堅太郎氏は当時の心境を後にこう記している。

母は総(すべ)ての人から親しまれ、誰よりも熱心に戦争の終わることを祈っていたのでした。母は惨死しました。真心を以(もっ)て母を愛している人であったならこの時の私の悲痛と敵愾心(てきがいしん)の混じった深酷且(かつ)複雑な興奮はよく想像して頂けると思います

=「再審嘆願書」、作成年月不明

株式会社「TOHJI」近くの福岡市。米軍による空襲の痕は微塵も感じさせない

息子の克也さんによると、「鬼畜米英」と教え込まれていたにせよ、「父は実際にそう思ったことはなかったのでは」と振り返る。写真や絵画に親しみ、外国人の写真を撮って交流することも珍しくなかったという。

堅太郎氏は母の遺体と対面し、その後、西部軍司令部に戻る。すると、広場では既に数人の「処刑」が始まっており、数人の捕虜は穴の中で死体となって横たわっていた。

堅太郎氏は進み出た。

「私は処刑者として最もふさわしい者だ」と突差に考えました。そして眼の前に法務部長や参謀が居ましたから、自分の職、官位、姓名を告げ理由を言って処刑者を志願しました

=堅太郎氏本人による「検事側にせる口述書及提出書の内容」、1948年2月20日

母を殺されたばかりの自分こそが「処刑の執行者として最もふさわしい」という申し出である。自分の軍刀(日本刀)を持参していなかった堅太郎氏は、周囲の軍人らに日本刀を借りたいと言う。

一人の見習い士官がすぐに貸してくれました。この時、曹長が(捕虜の米軍)飛行士を穴のふちに膝をつかせました。私は軍刀を水で清めてもらった後、飛行士の横に立ち、軍刀を振り上げました。この時、背後にいました将校が、よく狙いをつけるように注意しました。呼吸が静まるのを待って軍刀を振り下ろしたところ、首は九分通り斬れ、そのまま前に倒れて、穴の中に落ちました

=同

堅太郎氏はこのあと続けて3人を斬り、計4人の米国人を「処刑」した。

1939年当時の堅太郎氏(中央)。左は空襲で命を落とした母ウタさん

「処刑」の責任 押し付け合う上官たち

堅太郎氏らを裁く「西部軍事件」の取り調べ過程では、思わぬことも発覚した。

1945年の3月と5月、東京の陸軍省は西部軍参謀長に宛て、「敵機搭乗員は現地軍において適宜処分すべし」「(捕虜は)その地域で処理をするように」という電報を発している。西部軍司令部は「適宜処分」などの解釈について議論を繰り返したが、結論を出せぬまま時間を費やす。そして結局、一連の「処刑」は、軍律会議という軍の「裁判」を経ぬまま、実行されたことが分かったのである。

西部軍事件に限らず、BC級戦犯に問われた上官たちの中には、事件の隠蔽や責任の押し付け合いに走った者も少なくない。堅太郎氏に「処刑」を命じた上官は「別の上官に言われたことにしてくれ」と懇願してきたという。

巣鴨プリズンでは絞首刑を執行されたBC級戦犯もいる。その遺骨を受け取る遺族ら=1954年3月(アフロ/読売新聞)

部下に責任を押し付け合う西部軍の上官たち。そのさなかにあった父・堅太郎氏の心境を思い、克也さんはこう話す。

「(それらの行動は)よくある姿かもしれません。戦争の中でやってきているから(やむを得ない)と。下は命令されたからやったんだし、上にしたら(さらに上層部の)命令か指示なのか分からないようなものを自分なりに解釈してやった。こういうことはこれからもずっとあるでしょう」

横浜裁判では、地元の弁護士たちが戦犯の弁護人として活動を続けたことが知られている。横浜弁護士会(現・神奈川県弁護士会)は1998年に特別委員会をつくり、横浜裁判の実態を調査。いくら戦勝国による裁判であったにしても、正当な「法の支配」はあったのかどうかを検証している。

その中心メンバーだった間部俊明弁護士(73)は西部軍事件について、こう振り返る。

間部俊明弁護士。横浜弁護士会による調査は『法廷の星条旗 BC級戦犯横浜裁判の記録』(日本評論社)として出版された

「実にやりきれない事件です。被害と加害の連鎖です。そしてこれは、日本国憲法前文の『戦争の惨禍』という言葉にもつながるんです」

「われわれは戦後、新しい憲法を施行したけど、『戦争の惨禍』とは何かということを知らされてこなかったわけですよ。原爆(の被害)は言われてきました。沖縄戦も。しかし、敗戦末期のこの事件のことはほとんど知らされていない。これをどう総括するかですよ」

一部黒塗りで開示された裁判記録のコピー=外務省の「本邦戦犯裁判関係雑件 横浜軍事裁判関係『起訴状』綴」から

間部弁護士はさらに続けた。

「横浜裁判は勝者による裁きであり、認められないという人もいます。一方的に勝者が敗者を裁いた、あってはならないひどい裁判だ、と。じゃあ、どういう視点でこの事件を論じたらいいのか。私は『戦争の惨禍』、たった5文字だけど、それを具体的に知らなきゃいけないと思うんですよ。残念ながら国は、それを知ろうとする人に(実態を)見せないようにしてきた。国立公文書館で調べても、(戦争裁判記録の多くは)黒く塗りつぶされていて、努力してもそこで終わっちゃうんですよね」

郷里・福岡に戻り、「戦犯」から父へ

釈放された堅太郎氏は福岡市に戻り、文具店を営んでいた。終のすみかとなった住宅は、今も同市西区に残っている。

急斜面の細い坂道を上り切った、博多湾を見渡せる高台。眼下にはJR筑肥線が走り、リゾート施設も見える。1983年に68歳で亡くなるまで、堅太郎氏はここで過ごした。

息子の克也さんはそのころの父をよく覚えている。

「英会話を勉強してました。(学習用のカセットテープを文具店の)事務所で聞いて、しゃべって。韓国や東南アジアからの留学生の面倒をよくみていました。家に招いて食事して」

冬至堅太郎氏が住んでいた住宅からの風景

孫に当たる冬至竜介さん(45)もこう言った。

「なぜ、留学生を世話するのか。(祖父は)罪滅ぼしだ、と言っていました。アジアを日本人が攻撃して悲惨な目に遭わせた。日本では(加害の実態があまり)報道されないけれども、せめてもの償いだ、と。そう言っていました」

高台の住宅の庭には4体の地蔵が置かれていた。自らの手であやめた“敵国”の若者と同じ数だ。その鎮魂のためであり、実際に堅太郎氏は毎日、地蔵に手を合わせていたという。克也さんが述懐する。

「地蔵は4体と小さいのが1個あったんですよ。『恐らく自分が手にかけた米兵にもお子さんがおったかもしれん。そういう人たちもすこやかに育つように、と思っているんだ』と。そう言ってましたね」

「短い命を更に縮めるような小細工はなさるな」

堅太郎氏の死後、4体の地蔵は福岡市城南区の油山観音に寄進されている。

この9月、4体の地蔵を探すため、油山に向かった。人影はほとんどない。本堂の周りには地蔵がいくつもあり、冬至家の地蔵はどれか、なかなか判別ができない。寺に調べてもらい、ようやく4体を確認できた。

4体の地蔵。油山観音の広々とした境内の一角にある

実は米軍に連行される前、堅太郎氏は自決を志し、この油山観音の和尚に相談した。そのやりとりも堅太郎氏は書き残している。

「なぜ自決なさるのですか」と問う和尚に向かって、堅太郎氏は「敵に捕らえられ罪人として殺されるのは厭(いや)ですし、あとに残る家族の名誉のためにも軍人らしく自決したほうがいいと思います」と答えた。すると、和尚はこう諭したのだという。

「ハハハ……そんな見栄はおすてなさい。敵とか味方とか、一家の名誉とかそんなものにとらわれなさるな。武士道なども仏の途にくらべると随分せせこましいものですよ。仮にあなたが生き永らえたとしてもせいぜいあと5、60年の命でしょう。天地の悠久に比べると誰も彼も一瞬の命にすぎません。その短い命を更に縮めるような小細工はなさるな」

=『油山の歴史と伝説』に収録されている堅太郎氏の『苦闘記』

堅太郎氏はその後、巣鴨プリズンの中で仲間たちと共に、「世紀の遺書」という遺稿集の編纂(へんさん)に携わった。横浜裁判や東京裁判だけでなく、中国や東南アジアなどで行われた戦争裁判で戦犯となった日本人たちの遺書も収められている。その出版収益金によって1955年、東京駅に「アガペの像(愛の像)」が設置された。

東京駅の「アガペの像」。駅周辺の工事により一時撤去されていたが、2017年暮れ、丸の内駅前広場に戻された

堅太郎氏は、自分の子どもたちや次世代の人々に何を伝えたかったのだろうか。冬至家が保存していた日記をめくると、1949年6月8日の日付にはこう記されていた。

日本人は自分自身で考えるという大切なことにかけている。お父さん自身もそうだった。どんな人の言葉も盲信してはいけないし、頭から否定してもいけない、必ず、自分でよく味わい、吟味しなくてはならないのだ

海の見える高台にあった堅太郎氏の終のすみか。この風景をいつも眺めていた

堅太郎氏が眠る冬至家の墓=福岡市内

BC級戦犯を裁いた旧横浜地裁の陪審法廷。写真中央の柵には数十の穴が見える。これは同時通訳を聞くためのイヤホンジャック。法廷では英語と日本語が飛び交った=撮影協力・学校法人桐蔭学園

国立公文書館が保存している横浜裁判の資料。西部軍事件の判決では「絞首刑」が並ぶ。この裁判は1948年10月11日に開廷し、同12月29日に閉廷した=「油山事件裁判記録」復員局法務調査部


武馬怜子(ぶま・れいこ)
1980年、愛知県生まれ。フォトジャーナリストの中村梧郎氏に師事。2013年から被災地をテーマに写真展を各地で開催。2014年、上野彦馬賞入選。伝統芸能や動物、ロヒンギャ難民などを幅広く取材。
https://www.reiko-buma.com/


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最終更新:2018/12/5(水) 17:30

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