肉親やあなた自身が認知症になったら、日々の暮らしは一変するだろう。認知症の人は周囲との意思疎通が難しいから、買い物などの身の回りのことから財産の管理まで、困難が次々と押し寄せる。こうしたとき、当人に代わって後見人が預貯金の扱いや公的手続きを担うのが「成年後見制度」だ。その利用が進んでいないのだという。推計で2025年には高齢者の5人に1人、合計で約730万人が認知症になるという日本。成年後見制度の利用が低水準で推移すると、社会のほころびはさらに進むかもしれない。(飯島一孝/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「判断能力」を失う前に
社会福祉士と行政書士の資格を持つ鈴木雅人さん(42)はときどき、東京・新宿の介護老人保健施設に足を運んでいる。事務所のある横浜市から電車で約1時間。施設に着くと、2階まで吹き抜けの喫茶ルームで73歳のシズ子さんと向き合う。
9月中旬の昼。
鈴木さんは「体調はどうですか」と話し掛けた。車いすのシズ子さんは細い声で「相変わらずです」と答え、2人の間で世間話が続いていく。
シズ子さんは57歳のとき、脳内出血で倒れた。その後、東京都内の病院でリハビリ中、ケアマネジャーの紹介で鈴木さんと初めて会ったという。今の施設に移ったのは2年前。その際、都内で一人暮らしの姉(77)と一緒に、鈴木さんと「任意後見契約」を結んだ。
シズ子さんに子どもはいない。判断能力は失っていないが、左半身がまひしており、立ったり座ったりが思うようにできない。今、身の回りのことはヘルパーに頼む一方、月々の細かな支払いなどは鈴木さんに代行してもらっている。
「自分一人では買い物にも行けません。姉は自宅にいますが、元気がなく、電話しても出てくれないことがある。ひとまず(将来に備え)準備だけでもしておこうと契約したんです。鈴木さんは月に1回ほど面会に来てくれる。安心です」
「身寄りがあるかどうか」の分岐点
鈴木さんは福祉関係の大学を卒業後、ソーシャルワーカーとして働きながら法律の勉強を続け、10年前に横浜市で個人事務所を立ち上げた。自らを「人生最期の付添人」と言い、成年後見制度の活用を訴えている。
「認知症や知的障害、精神障害などで自分のことを判断できなくなっても、成年後見人がサポートすることで『その人らしい、安心・安全な生活』をかなえる。それが成年後見制度です」
成年後見人の役割は大きく二つある。
一つは「財産管理」で、預金通帳・印鑑などの保管から財産の管理、公共料金の支払いなどが含まれる。もう一つは「身上保護」。判断力を失った場合、その人はどこで暮らし、どんな生活を送りたいのか。そういった暮らし方の希望を本人や周囲から聞き取り、相談しながら組み立てていく。
これとは別に、「法定後見」か「任意後見」か、の種別がある。「法定」は、親族などによる家庭裁判所への申し立てに基づき、家裁が後見人を選任する。「任意」は判断能力がある人が認知症などになった場合に備え、事前に自分で後見人を選んで契約する制度だ。
後見人はいつ、どういうタイミングで頼むのか。鈴木さんはこう言う。
「法定後見では、身寄りがあるかどうかで当事者の対応が変わってきますね。身寄りがない場合は、ケアマネジャーさんらが『施設に入るときの手続きなどで対応できないから』と言って、市町村に後見人の申し立てを求めるケースが多いんです。身寄りがあると、施設への入居手続きなども比較的簡単ですし、親族はなかなかこの制度を利用したがらないんですね」
そうした隙間を埋めるのが、任意後見だという。
「任意後見は、判断能力がしっかりしているうちに本人が契約するので、いわば保険のようなものです。自分で後見人を決めることができるから、認知症になった際の治療方針やお墓、葬式のことなど、事前に希望を伝えることもできます」
迫る「認知症大国」
日本はまもなく、「認知症高齢者大国」になる。政府の推計によれば、2012年に約462万人だった65歳以上の認知症有病者は、東京五輪開催の2020年に約631万人にまで増加。さらに2025年には約730万人となり、2050年には1千万人を突破する。
では、「認知症高齢者大国」を支える目的の成年後見制度は、どのくらい利用されているのだろうか。
厚生労働省が今年5月に公表した「成年後見制度の現状」によると、2017年末時点で、制度全体の利用者は約21万人だった。その2年前の2015年、認知症の有病者は約525万人(推計)だったから、利用率はたった4%。このままのペースが続くと、利用率はますます下がる可能性が高い。
しかも、利用の大半は「法定後見」だ。鈴木さんが勧めているような「任意後見」の利用は、2017年末で約2500人。ただでさえ少ない利用者の1.2%を占めるに過ぎない。
「市民後見人」 養成を急げ
なぜ、制度の利用は進まないのだろうか。
9月下旬、東京・本郷にある東京大大学院教育学研究科を訪ねた。特任助教の飯間敏弘さん(46)は、「市民後見人養成講座」を運営する一般社団法人地域後見推進センターのプロジェクトに携わっている。
――利用率の低さはどこに原因が?
「ひとことで言えば、面倒臭いからじゃないですかね。いったん後見を始めると、後見を受ける人が亡くなるまで終わらせることができない。また、自分が後見人になれると思って家裁に申し立てる人も多いですが、現在、親族は後見人になりにくい。それを知って申し立てを止める人も増えています。後見人に選ばれるのは弁護士や司法書士などの専門職が多く、本人にほとんど面会にも来ないで報酬をたくさん取っている、と怒る親族も多いんです」
2000年に制度がスタートして以降、しばらくは、本人の親族が後見人になるケースがほとんどだった。ところが、「親族後見人」が不正にお金を使い込むなどの不祥事が続発。最高裁の調査によると、2011〜2015年の5年間で全体の被害額は約213億円に上った。このうち、「専門職以外」の後見人による不正は全体の94%に達し、そのほとんどは「親族後見人」によるものとみられる。こうしたことから、家裁は親族の後見人選任を避けるようになり、現在は全体の3割にも満たない。
地域後見推進センターが手掛ける「市民後見人養成講座」は、こうした事態を解消するために2009年から始まった。司法書士などの専門職でもなく、親族でもない「市民後見人」。その比率は現在、後見人全体の2%程度だが、これを大きく引き上げていくことが目標だという。
講座は週末を利用し、3〜4カ月で法律や財産管理など約30コマの講義を受ける。修了生はこれまでに3000人超。福間宏光さん(73)もその1人で、NPO法人「千葉県市民後見人支援センター」を立ち上げて理事長となり、地道な活動を続けている。
福間さんは「市民後見人の選任は、1人ではなく、NPOとして受けています。そして2、3人でチームをつくってサポートする。これだと、市民後見人に体調の悪い人が出ても交代で活動できます」と言う。
もっとも、そんな活動を続ける「市民」が家裁に「○○さんの後見人になります」と申し立てても、簡単には後見人に選任されないという。弁護士など専門職に比べ、まだ家裁の信頼度が低いためだ。
だから、「市民後見人養成講座」の運営を手掛ける飯間さんは修了生らに向かって、「財産管理」ではなく、認知症の人の身の回りの手配をする「身上保護」に力を入れるように、とアドバイスしている。
「専門職に不足しているのは、身上保護です。市民後見人はそこに力点を置いて、地域の方々の信頼を勝ち取ってください、と。それを通じてこそ、家裁の信頼を得ることができるわけですから」
政府も動き始めたが……
成年後見制度の利用を増やすため、政治と行政も動き始めている。
2016年4月には、与野党の超党派による議員立法で「成年後見制度の利用の促進に関する法律」が成立。これに伴って2017年3月、利用促進に向けた基本計画が閣議決定された。
厚生労働省・成年後見制度利用促進室の梶野友樹室長は「この制度については、『聞いたことはあるが、実際にどう使うか分からない』という方がもともと多かったわけです」と話す。
「例えば、認知症の本人からもいろいろ申し立てがあります。もしこの制度をよく知っていたら、仮に必要のない高額な健康器具や布団などを買わされたとしても、『補助人』を付けてそうした契約の取り消し権を付与することができるんです」
制度の利用をどう増やすか。梶野室長は「利用者がメリットを実感できる制度・運用の改善、それがポイント」と言い、こう説明した。
「後見人によっては『財産管理』しかせずに『身上保護』をしていないとか、後見人がご本人に全然会いに来ないとの指摘もあります。そうならないためには、ご本人にふさわしい後見人を家裁に選任してもらう必要があります。具体策としては、市町村が関係機関を集めて中核機関を設置し、そこで後見人を推薦してもらう、と。場合によっては、後見人の交代もありうる。そんなことが検討されています」
当事者「私たち抜きで決めないで」
鳥取市に住む藤田和子さん(57)は若年性認知症の当事者である。軽度のアルツハイマー病と診断されたのは、看護師だった2007年のことだ。今は軽度ではないかもしれないが、意思表示は十分にできる。
藤田さんは初めて、認知症の人に対する偏見があることを実感したという。それ以降、認知症の人の尊厳と自己決定権を重視してほしい、という当事者たちの運動に携わっている。
9月初旬の鳥取市。ホテルのロビーで向き合った藤田さんは「患者であるという前に、まず一人の人間として尊重してほしい」と訴えた。現在は、一般社団法人・日本認知症本人ワーキンググループの代表理事を務めている。
「私たちは『認知症患者』という表現を使わないようにしているんです。認知症はその人の全てではなく、その人の一部分。それが共通の思いです。海外の人たちも、患者である前に一人の人間であることを強く打ち出している。認知症の診断は、新たな人生の始まりなんです」
認知症の人たちとの勉強会に何度も参加し、英国スコットランドでの活動に触れた。そこでは「私たち抜きで私たちのことを決めないで」が合言葉になっているという。
高齢者の5人に1人が認知症患者と予測される未来まで、あと10年足らず。そのとき、成年後見制度は本人たちの意思をどう推し量りながら、どんなかたちで社会に浸透しているのだろうか。政府の基本計画には「個人としての尊厳を重んじ、その尊厳にふさわしい生活を保障する」「自己決定権の尊重」が含まれてはいる。
藤田さんは言う。
「私はこの制度を使ったことがないし、使ったという人に出会ったこともないんですね。認知症になる前に、制度を知っておくのはいいことだと思うけれども、『認知症になったら後見人を付けなければいけない』という路線に乗った理解だけが広まると、(私たちは)困るんじゃないかと思うんですね」
患者本人たちの活動に携わるようになった2010年、藤田さんは「若年性認知症問題にとりくむ会・クローバー」を立ち上げた。「自分たちの思いをもっと社会に発信し、住みやすい社会にしていこう」との考えは、今も変わっていない。
「認知症の人に限らず、この制度を使ったために自分の権利や自由が奪われることがないようにしてほしい。後見人の役割を担う人は『一人の人間の権利をきちんと守るんだ』ということを理解してほしい。そして、みんながそう思うことができるよう、制度が生かされたら、と思うんですね」
飯島一孝(いいじま・かずたか)
1948年、長野県生まれ。ジャーナリスト。著書に『六本木の赤ひげ』(集英社)、『新生ロシアの素顔』(毎日新聞社)、『ロシアのマスメディアと権力』(東洋書店)など。
[写真]
撮影:八尋伸
写真監修:リマインダーズプロジェクト 後藤勝