80歳のマイケル・ダグラスが明かす、“2世俳優”が父の影から逃れるまで
[サウジアラビア、ジッダ]2度のオスカーに輝き、「危険な情事」(1987)、「ウォール街」(1987)、「氷の微笑」(1992)、「アメリカン・プレジデント」(1995)など数多くのヒット映画に主演したマイケル・ダグラスは、ハリウッドを代表する大物スターのひとり。今年9月に80歳を迎えた彼が、紅海国際映画祭で行われたトークイベントで、長いキャリアを振り返った。
父は、伝説のハリウッド俳優カーク・ダグラス。母ダイアナ・ダグラスも女優。だが、子供時代のマイケルに同じ道を進むつもりは毛頭なかった。
「父は映画の撮影で常にあちこちを飛び回っていて、あまり会えなかった。そのことに怒りを覚えていたのかもしれないね。とにかく、自分は絶対やらないつもりだったよ。だが、大学3年生の時、専攻を決めなければいけなくなり、両親がやっていたからほかより簡単だろうと、演技を選んだんだ。やってみると、まるでダメ。舞台ではいつもあがってしまって、ひどいことしかできなかった。それなのになぜ続けたのか、今でもわからない。ただ克服してみせたかっただけかも」。
父のことは理解しようとしていたし、尊敬もしていた。
「良い父親になろうとはしていたんだよ。だが、とにかく多忙すぎたんだ。私は、父が『ヴァイキング』(1957)や『スパルタカス』(1960)で大人気を集めるのを見て育った。ウエスタン映画で最高にかっこいいことをやってみる父も見た。人並み外れた存在の父を少し恐れてもいたし、自分が父のようになれることはないとも思っていた」。
カリフォルニア大学サンタバーバラ校を卒業後はニューヨークに移り、真剣に演技を勉強。プロとしての最初の大きな仕事は、レギュラー出演したテレビドラマ「サンフランシスコ捜査線」(1972〜1977)だ。テレビは映画より格下の位置付けだったが、大きな意味があったと振り返る。
「連続テレビドラマをオファーされたらやりなさいと、私はいつも若手にアドバイスするよ。繰り返しやることには意味がある。当時のドラマは1シーズンが26話あり、撮影は8ヶ月半かかった。大変だったが、新人の私はそれで鍛えられたと思う。プロデュースを手がけるようになった時も、その経験はプラスになった」。
「カッコーの巣の上で」には父が主演するはずだった
「カッコーの巣の上で」でプロデューサーに初挑戦したのは、「サンフランシスコ捜査線」にレギュラー出演していた1975年。この作品は、もともと父カークの情熱のプロジェクトだったものだ。
「ちょうど『スパルタカス』でトップスターになったところだった父は、自分の製作会社を通じて権利を買ったこの小説を、まずブロードウェイで舞台化して成功させ、映画化につなげようと思っていた。だが、舞台劇はヒットせず、映画化の企画は進まない。ついに諦め、映画化権を売ろうとしたのを止めたのが、私だったんだ。私は大学の授業でこの小説を読んで以来、すっかり惚れ込んでいたのさ。自分にやらせてくれと父の会社にしつこく頼み続け、ついに父は『やらせてやれ』と折れてくれた。そうして私はなんとかお金を集めてきてみせたんだ」。
だが、最初に思っていたのと同じ形での実現にはならなかった。
「(父が主演したいと最初に思った時から)10年が経ってしまい、父は歳を取りすぎていた上、キャリアの違うところにいた。そんなところにジャック・ニコルソンが現れた。あれは父にとって辛かったはずだ。俳優にとって良い役に巡り逢えるのは稀なことだから。とは言え、きちんと契約したので、父はこの映画で大きく儲けているよ」。
事実、この映画は全世界で1億6,300万ドルを売り上げるという、当時にしては爆発的なヒットとなっている。アカデミー賞にも9部門で候補入りし、作品、監督、主演男優、主演女優、脚色部門で受賞。ここまでの成功は、誰も予想しなかったことだ。
「これは完全にインディーズで製作された映画。音楽も入れ、全部揃った状態で、私たちはスタジオや配給会社に売り込んだ。だが、見事なほどどこからも断られたよ。あの経験から、私はハリウッドについてまた少し学んだと思っている」。
父が果たせなかったオスカー主演男優賞受賞
「カッコーの巣の上で」で、マイケルはプロデューサーとしてオスカー作品賞を受賞した。次のオスカーは、「ウォール街」での主演男優賞だ。ほかにもさまざまな賞を手にしているものの、「本当に意味があるのはオスカーだけ」。ほかの多くの賞はオスカーへの勢いをつけるためにあるようなものなので、それは事実だ。だが、マイケルにとって、オスカーは個人的な意味ももつ。
「『ウォール街』で主演男優として受賞した時、私はついに父の影から逃れることができたと思う。父は3度ノミネートされたが、受賞したことはない。それまで、私はいつも父の影の下にいると感じていた。父はとてもパワフルな人だったから。『カッコーの巣の上で』での受賞はプロデューサーとしてのものだったからそうは感じなかったが、あれはその瞬間だった」。
それから23年を経て続編「ウォール・ストリート」(2010)が公開された頃、ガンを患っていることを発表。闘病の末に復帰した「恋するリベラーチェ」(2013)が初上映されたカンヌ国際映画祭での記者会見では、涙を流す瞬間もあった。そこからは、またコンスタントに仕事を続けてきている。
「数年前、まだやっていないのは何だろうと考え、コメディだと思った。それでNetflixの『コミンスキー・メソッド』(2018)に出演したんだ。マーベルの『アントマン』に出たのはグリーンスクリーンをバックに演技をするのはどんなことなのか興味があったからだし、Apple TV+の『フランクリン』に出たのは時代物の経験がなかったから。さて、次は何か。わからないな」。
そんなふうに、好奇心もまだまだある一方、焦りもない。
「私はキャリアを通じてずっと働いてきた。ガンの治療でちょっと休んだのを除けば、60年間、ほぼずっと走り続けてきている。それで、『フランクリン』の撮影が2022年の12月に終わると、少し休むと決め、2023年は何もしなかった。そうしているうちに2024年も末だ。そう気づいてはいるけれど、先日80歳になったところだし、今は自分の人生をたっぷりと楽しませてもらっているよ」。