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家臣が出奔するというピンチをチャンスに変えた、徳川家康の先見性とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大手企業は賃上げに沸くが、中小・零細企業で恩恵を受けているところは少ないようだ。しかし、徳川家康は数々のピンチを優れた先見性で乗り越えたので、紹介することにしよう。

 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、家康は羽柴(豊臣)秀吉との戦いに勝利した。最終的に、家康は秀吉に臣従することになったが、世間では家康と秀吉は再び大合戦に及ぶのではないかと専らの噂だった。家康の家臣は常日頃から、その心づもりをしていた。

 翌天正13年(1585)、家康の重臣の石川数正が突如として出奔し、秀吉の配下に加わった。当然ながら、家康の家臣は狼狽した。というのも、数正は酒井忠次と並ぶ老臣で、合戦では先陣をいつも務め、大いに軍功を挙げていた名将だったからである。

 その数正が秀吉の配下に加わると、徳川方の軍制をはじめとした機密情報が漏れてしまう。そうなると、秀吉との戦いが不利になると家康の家臣らは考えた。頭を抱えるのも無理がなかった。

 ところが、家康は数正の出奔を意に介さず、かえって機嫌が良かったという。これには家臣も驚くと同時に、かえって不審に思うくらいだった。むろん、家康が余裕を見せたのには、大きな理由があった。

 家康は甲斐の郡代を務めていた鳥居元忠に命じて、武田信玄の時代の軍法や武器、兵具を集め、浜松城(静岡県浜松市)に運び入れるよう命令したのである。

 その奉行に成瀬正一、岡部正綱を任命し、総元締めは「徳川四天王」の井伊直政、本多忠勝、榊原康政の3人に命じた。家康はピンチをチャンスに変えるべく、武田氏の軍制を学ぼうとしたのだ。

 家康は秀吉に勝利したものの、常日頃から軍の強化を検討していた。その際、参考にしたのが戦国最強と言われた武田信玄の軍制である。

 信玄が甲斐だけでなく、信濃など数ヵ国にわたる支配を実現したのは、最強の軍隊を保持していたからだった。家康は数正が出奔したのをよい機会として、軍制改革に乗り出したのである。すでに、その布石は以前から打っていた。

 天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡した際、家康は勇猛果敢で知られる「武田の赤備え」を配下に加えていた。「武田の赤備え」を預けたのは、井伊直政である。

 家康は直政に預けた武田衆に対して、信玄時代の役に立つ軍事情報を提供するよう求めた。こうして家康は、軍制を甲州流に改めたといわれている。

 現代社会は、改革の連続である。一つの成功に満足していると、たちまち破滅を迎えることは珍しくない。それは、栄枯盛衰の戦国時代も同じだった。

 いつまでも勝利の余韻に酔いしれるのではなく、次なる対策が必要だった。家康は上昇気流に乗っていたが、それに満足せず、常に「次の一手」を模索していた。数正の出奔を嘆くのではなく、改革の良い機会ととらえたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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