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【深読み「鎌倉殿の13人」】壇ノ浦の戦いで源義経が勝ったのは、潮の流れの変化だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
壇ノ浦の戦いで、平家は滅亡した。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第18回では、源義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込んだ。その際、勝敗を決したのは、潮の流れの変化だったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■源義経、壇ノ浦へ

 元暦2年(1185)2月、源義経は平家が逃れた屋島の襲撃に成功した。敗れた平氏は志度へと移ったが、そこも義経の攻撃を受けたので、さらに西の彦島へと逃れた。

 義経はすでに熊野水軍、河野水軍などを味方にしていたので、海上での戦いには不安がなかった。一方の平氏は松浦党などを味方とし、指揮は総大将の平知盛(宗盛の弟)がとることになった。

 合戦に臨む前、義経は軍奉行の梶原景時らと軍議を催した。その際、景時は先鋒を志願した。しかし、義経は自身が先鋒を務めると言ったので、2人は口論となった。景時の主張は「将たる者が先鋒を務めるなど、聞いたことがない」というものだった。

 結局、義経が先鋒を務めることになったが、景時は義経に恨みを抱いた。屋島の戦いでの逆櫓論争の一件もあり、景時が頼朝に対して義経の讒言を行う原因になったといわれている。とはいえ、この逸話は義経と景時の対立を強調する、作為と思えなくもない。

■優勢だった平家

 同年3月24日、いよいよ戦いがはじまった。いかに義経軍が水軍を味方にしたとはいえ、最初は平家が戦いを有利に進めた。平家は関門海峡の潮の流れを熟知していたので、義経軍を圧倒したのである。

 このとき義経は、船の漕ぎ手などを矢で射るように命じたという。戦闘員以外に攻撃を仕掛けるのは、当時の作法に反した行為である。しかし、義経はこれを実行することで、反転攻勢に出たという。しかし、この話は根拠不詳であり、現在は疑問とされている。

 義経に勝利をもたらしたのは、潮の流れだった。開戦時、関門海峡の潮は、西から東に流れていた。したがって、義経の軍勢は西から東に押し出されるような形となり、苦戦を強いられた。

 しかし、潮目が東から西へと変わると、逆に義経軍は平家を追い詰めることになった。潮流の流れの変化が義経に勝利をもたらしたという説は、古くから提起、支持された説だった。

 この説については、その後になって反論が寄せられた。そもそも潮流の変化が、合戦の勝敗に関係するのかという疑問である。たしかに条件は同じなのだから、勝敗の要因は別に求められるだろう。

 そもそも義経軍は攻勢であり、平家は敗北を重ねて壇ノ浦まで逃れていた。将兵の士気は、義経軍が圧倒的に高かったに違いない。おまけに、九州では範頼が待ち構えており、もはや平家に逃れる術はなかった。

 こうした状況下、戦巧者だった義経が戦いを有利に進めると、敗勢が濃いと感じた平家軍から脱落者が出ても仕方がない。平家本隊は100余艘の船団で、残りの400余艘は松浦党などの応援部隊だった。応援部隊が平家と運命を共にする理由はなかった。

■むすび

 勝敗を決めたのは、潮流の変化による説が支持されてきたが、今では否定的な見解が根強くなっている。平家は敗北を重ねながら転戦したので、味方になる勢力も乏しく、最初から劣勢は明らかだった。あてにしていた武将らからも見放されたことだろう。

 一方の義経軍は、連戦連勝で勢いに乗っていた。範頼の協力もあり、味方になる武将も多かったに違いない。つまり、すでに平家は敗勢が濃かったわけで、攻勢だった義経軍が勝利したのは当然だったのである。潮の流れの変化は、関係ないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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