三連休、どこ行く? はじめての「ひとり温泉」なら、”美食と名湯の宿”に篭り、読書に耽る
湯田川温泉「九兵衛旅館」 まっ昼間から布団に入り、藤沢周平作品に耽る
山形県鶴岡市の湯田川温泉「九兵衛旅館」が、藤沢周平と縁があったことは知っていた。藤沢周平自身が、「鶴岡に帰省する際には九兵衛旅館を使う」と書いているのを、何かで読んだのだ。
この日、仕事で湯田川温泉に出かけた。
ただ仕事開始時刻より5時間早く「九兵衛旅館」入ることができたら、“束の間のひとり温泉”を楽しもうと目論んだ。
靴を脱いで入る玄関ロビーの奥の通路に、藤沢周平ギャラリーがある。
私が大滝研一郎社長に藤沢周平について尋ねたことがあったので、藤沢周平がひとりで来る時に使ったという2階の客室「桂」を空けておいてくださっていた。
「桂」は8畳間に4畳の広い縁側が付く。
縁側には、ところどころ剥げた机に藤のいすが置かれてある。そのいすに腰かけて、お茶請けに用意されていた紅あずまを使用した「栗きんとん」とお茶をいただきながら、庭に目をやった。
窓越しに、雪化粧した日本庭園の中庭が見えた。立派な松の木々にしっかりとした雪囲いがしてある様子からして、雪深いのだろう。今年はたまたま暖冬で、木々に少し雪が乗っている程度だった。
藤沢周平の小説に出てきそうな風流な光景だった。
「九兵衛旅館」と言えば、金魚が泳ぐ大浴場が名物だ。もちろん湯船で泳ぐわけではない。泳いでいるのは壁面にはめ込まれた大きな水槽だ。
泉質はナトリウム・カルシウムー硫酸塩温泉。さらさらとした肌触りで、のんびりとした気持ちで水槽を見ると、水面がゆらゆらしていてた。しばし金魚の動きを目で追った。旅の道中の疲れが取れ、ほっとゆるんだ。
さらりと作務衣を着て「桂」に戻る途中、同じ階に藤沢周平作品が並ぶ書棚とゆかりの映画ポスターが飾られた一角を見つけた。
書棚には『たそがれ清兵衛』『密謀』『海鳴り』『隠し剣孤影抄』『白き瓶』と藤沢周平の代表作が並び、他にも多くの作家の代表作が並んでいた。
私は藤沢周平の『たそがれ清兵衛』(新潮文庫)『密謀』(珍重文庫)『海鳴り』(文春文庫)の他、森まゆみさんの『路地の匂い 町の音』(ポプラ文庫)、あさのあつこさんの『バッテリー』(角川文庫)1巻、遠藤展子氏(藤沢周平のご息女)の『藤沢周平 遺された手帳』(文春文庫)などを手にして部屋に帰る。
最初に客室に案内してくれた女将さんが、「おひとりのお客様の場合は、いつもお布団を敷いておくんです」とおっしゃった通り、8畳間の4分の1のスペースを布団が占めていて、「ごろんとしてくれ」とばかりに、布団に誘われた。
窓からは青空が見えた。真昼間である。
ま、いっか。
するすると布団に潜り込む。
旅館に宿泊する際の醍醐味は、これだ。
お天道様が見ている中、ノリが利いたシーツに、足で「パリパリ」とノリを剥がしながら隙間を作り、割って入る。昼からいいのか? と背徳感が芽生えるが、これがまた良い。
そして、現実社会を繋げてしまう携帯の電源を切る。メールなど見て、せっかくほぐれた気持ちが途端に元に戻るのはたまったもんじゃない。「私を探さないでください」という気持ちで、完全にオフ。
布団でごろごろして、本を片手にしたら、お酒が欲しくなりますね。でも残念ながら、私はこの後に仕事があったのです。
まずは見開きで読み切れる随筆から入る。
森まゆみさんの随筆集は私も土地勘ある谷根千を描いていて、光景を思い浮かべながら読み進める。なんと、団子坂が東京のモンマルトルとな。そうか、そうか。見開きで読み切りという短さも、またいい。『バッテリー』は安定した読みやすさで、つい深くに入り浸るところだった。次に『藤沢周平 遺された手帳』をパラパラめくり、藤沢周平がどんなに家族想いであったかを知る。
ここまでが準備体操。いよいよ長編『密謀』に入ろうか。
布団から出て、ひょっとしたら藤沢周平も縁側の藤のいすに座ったかもしれないと想像しながら、このいすに腰かけて『密謀』を読み始めた。
ほんの束の間で、上下巻を読み切れるわけもないが、それでも、藤沢周平の気配を感じながら読む。
やや緊張。
いつもは温泉に入り、その後、本を手にすると、瞬く間に眠りに入るが、今日ばかりはかなりのページをめくれた。著者が滞在した部屋でその作品を読むのに、眠りこけてははなはだ失礼である。
夕方から夜にかけての仕事を終えて、深夜に「九兵衛旅館」に戻ってきた。
※この記事は2024年9月6日に発売された自著『ひとり温泉 おいしいごはん』(河出文庫)から抜粋し転載しています。