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トランプが阻止しようとした伝記映画、アメリカで無事公開に。選挙前の絶妙なタイミング

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
若き日のトランプを描く「The Apprentice」(Pier Weyman)

 ドナルド・トランプ前大統領の若き日を描く伝記映画「The Apprentice」が、現地時間今週金曜日、アメリカで公開になる。トランプ陣営から訴訟すると脅され、一時はアメリカの配給がつかないのではないかと恐れられたものの、結局、大統領選挙の3週間半前という絶妙なタイミングで公開されることになった。

 トランプは内心、相当にご立腹に違いない。とは言え、選挙の結果に与える効果はほとんどないと思われる。この映画を見たせいでトランプに投票するつもりだった人が考えを変えることも、トランプを嫌っている人が彼を好きになることも、まずない。そもそも、この映画に、トランプを悪く見せてやろうという意図はない。先週末、ロサンゼルスで行われた試写上映の後、アリ・アバッシ監督は、観客に、「この映画はフェアだと思いますか?」と聞いた。ガブリエル・シャーマンが書いた脚本は、まさにフェアだ。

 シャーマンは長年の政治ジャーナリストで、トランプにも何度もインタビューをしてきている。映画に出てくる、トランプにとっては面白くないことには、過去に出版された本や記事などにも書かれていて、すでに知られていることも多い。トランプが最初の妻イヴァナ・トランプをレイプするシーンも、離婚調停時の彼女自身の証言にもとづくものだ(ただし、それから何年も経ってから、彼女はその事実を否定している)。

我々が知るトランプはどう誕生したのか

 映画の舞台は、70年代と80年代。父に認められたいと願う次男坊のドナルド・トランプ(セバスチャン・スタン)は、パワフルで悪名高い弁護士ロイ・コーン(ジェレミー・ストロング)に出会う。恐れも恥も知らず、汚いことをしてでも自分の目的を達成するコーンのやり方に最初は疑問を抱くも、やがてトランプは、この恩師の教え通りに行動するようになる。

 コーンのルールその1は、「攻撃、攻撃、攻撃」。その2は、「何も認めるな。すべてを否定しろ」。その3は、「勝利宣言をしろ。負けたことは絶対に認めるな」。つまり、今の我々が目にするトランプがどう生まれていったのかを語る、いわばオリジンストーリーである。

 私生活の部分も描かれる。偶然イヴァナ(マリア・バカロヴァ)に出会い、ひとめ惚れしたトランプは、彼女が「私には恋人がいる」というのも気にせず、猛烈にアプローチする。それは強引ながら、ロマンチックでもある。そんな大恋愛だったはずなのに、結婚してしばらくした後、もう興味がなくなったと妻に言い放つ冷たいシーンも出てくる。また、兄フレッド・トランプJr.との複雑で悲劇的な関係にも触れられる。だが、トランプがおそらく一番見たくないのは、映画の最後のほうに出てくる脂肪吸引手術とハゲた部分を治すための整形手術をするシーンではないか。

カンヌ国際映画祭に出席したセバスチャン・スタン(左)、アリ・アバッシ(中)、マリア・バカロヴァ
カンヌ国際映画祭に出席したセバスチャン・スタン(左)、アリ・アバッシ(中)、マリア・バカロヴァ写真:REX/アフロ

 トランプはまだこの映画を見ていない。にもかかわらず、5月のカンヌ国際映画祭での世界プレミアの直後、トランプのキャンペーンのスポークスパーソンは、「フィルムメーカーのふりをし、嘘をふりまくこれらの人たちを、我々は訴訟するかまえです」と声明を発表している。「これは完全なるフィクション。ただのゴミ。トランプがホワイトハウスに返り咲くと知っているハリウッドのエリートが選挙の邪魔をしているにすぎません」とも、声明は述べた。

 おそらくトランプ陣営は、友人でビリオネアのダン・スナイダーからこの映画について聞いていたのだろう。トランプに寄付をしてきたスナイダーは、このインディーズ映画のプロジェクトを聞いて、トランプを良く描くものだと思い込み、500万ドルを投資したのである。今年2月にラフな編集を見ると激怒し、公開を阻止しようとしたのだが、彼はこの映画の著作権を所有しておらず、映画はカンヌでお披露目となったのだった。

手を挙げたアメリカの配給会社は1社だけ

 トランプから訴訟すると脅されても、アバッシ監督は恐れず、「これは必ずしも彼が嫌う映画ではないと思う。必ずしも気にいるとも思わないが。きっと驚くのでは」と、トランプのために特別に上映会を設定してあげたいとオファーまでしている。

 しかし、アメリカの配給会社は、そこまで強気になれなかった。トランプがまた大統領になる可能性もある中、各社はかかわることを恐れたのだ。このままアメリカで公開されなければ自己検閲になる。そんなことになったらと、人々は不安を募らせた。

 そんな中、手を差し伸べたのが、業界のベテラン、トム・オルテンバーグが創設したブライアークリフ・エンタテインメントだ。この映画のアメリカ配給権を買いたいと手を挙げたのは、この会社だけ。ちなみにオルテンバーグは2016年の大統領選挙でバーニー・サンダースを支持している。

(The Apprentice Productions)
(The Apprentice Productions)

 先週末のロサンゼルスでの試写に来ていたオルテンバーグは、「ここまでは長かった。みなさん、ソーシャルメディアなどで広めてくださいね」と語っていた。一方、トランプによる訴訟はどうなったのかと聞かれたアバッシ監督は、「彼には今もっと大変なことが起きていますからね」と、自分が対象の数々の裁判で忙しいトランプが、これに関して結局何もしていないことを示唆した。

 だが、アメリカでついに映画が公開となった以上、「映画を見たら、僕たちに何か言ってくるでしょう」とも予想する。「その時が今から楽しみです。でも、僕たちと一緒に見たら、もっと楽しいと思うんですよね。僕のオファーはまだ有効ですよ」と、アバッシ監督はあいかわらず余裕。たしかに、トランプが何か言えば、映画にとっては良い宣伝だろう。そうわかっていてもトランプはいつものように騒ぐのか、あるいは冷静を保つことができるのか。彼の反応が楽しみだ。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「シュプール」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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