チームの“顔”にFA移籍の勧め「王が欲しがっとる、行け」 伯父から指令も初めて反論
1995年に自己最多25セーブ…オフにFA残留で年俸1億円を突破
守護神には最高の教科書が存在した。“投手王国”の広島で過ごした日々。そこには最優秀救援投手のタイトルを獲得した津田恒実、大野豊の姿があった。「ずっとブルペンで見ていましたからね。調整の仕方とか肩の作り方、ゲームの入り方等々。そういうのはカープで勉強していた。見よう見まねでやってみたりして、『あっ、こうすればいいんだ』と自分なりの形ができました」。 試合開始時点ではユニホームを着用せず、ジャージー姿でトレーナーのマッサージを受ける。5回までは展開を気にすることなくリラックスし、出番がありそうならブルペンで徐々にスイッチオン。大差の場合は投げない、気持ちも入れない。「実際に登板したら、あえて太々しく振る舞った。チームへの影響を考えて、打たれても『ワシが打たれたんならしょうがないわ』と開き直って投げるようにしましたね」。 持ち味の制球力、長身からのフォーク。プロで長く飯を食ってきた投球術は、抑えにピタリとはまった。クローザー初年度から9勝13セーブの大活躍。好リードの田村藤夫捕手と最優秀バッテリー賞に輝いた。日本ハムはもちろんのこと「やっぱり、あらゆる基礎はカープ時代にある。カープにも感謝しています」。 金石氏は翌年以降もストッパーとして2桁セーブを積み重ねチームの顔になった。1995年には自己最多の25セーブを記録。オフにはFA残留し、日本ハムでは初めて年俸1億円の大台を突破した。 このオフ。実は400勝投手の伯父・金田正一氏(元ロッテ監督)から高校のPL学園、プロの広島入りに続く“特別推薦”を受けた。FA権を取得した甥っ子に「王(貞治監督)が欲しがっとる。行け」とダイエー入団を勧めたのだ。「今だから言えるけど」と述懐する。 しかし、初めて反論したという。「僕は金田じゃありません。金石です」。自分を貫いた。「日本ハムで、お山の大将でやらせて頂いていた。また一からホークスでやり直すのは、残りの野球人生を考えるとね」。その後「伯父さんは、僕のことを『オウ、金石』としか言わなくなりました」。金石氏は懐かしそうに笑った。
西村大輔 / Taisuke Nishimura