チームの“顔”にFA移籍の勧め「王が欲しがっとる、行け」 伯父から指令も初めて反論
金石昭人氏は1993年開幕前に骨折…シーズン途中にクローザーへ配転
怪我の功名だった。プロ3球団20年で通算72勝80セーブをマークした野球解説者の金石昭人氏は、日本ハム時代の1993年開幕前に右足を骨折した。復帰後は守護神を担った。「1度は『僕は抑えに向いてませんよ』と断っていました」。広島から移籍1年目の前年は13完投の数字が示すように先発の軸だった197センチの長身右腕は、いかにして転身したのか。 【写真】鷹右腕が元アイドルと電撃結婚 夫人と肩を寄せデレデレするアツアツ2ショット 1993年の春季キャンプ。金石氏は異変を自覚した。「何か去年と違うな……。肩が浮いてる。力んでも全然自分のボールがいかない」。チーム最多14勝を挙げた1992年オフに体のケアを怠ったことが要因で、「ごまかしながらやっていました」。 悪いことは重なる。福岡ドーム(現みずほPayPayドーム)のこけら落としとなる「竣工記念パ・リーグトーナメント」が4月2日から3日間開催された。そのダイエー(現ソフトバンク)戦に登板し、吉永幸一郎捕手の打球が右足に当たるアクシデントで開幕アウトとなった。 6月に復帰したが、プロの世界は厳しい。チームの先発陣は西崎幸広、柴田保光、武田一浩に加えて若手の白井康勝も台頭し、金石氏が入り込む余地がなくなっていた。一方で抑えのルーキー山原和敏が故障で離脱した。 この年からチームは“親分”こと大沢啓二・球団常務が監督に復帰。金石氏が「日本ハムの首領ですからね」と愛する指揮官の命を受けた高橋一三コーチから、クローザーへの配置転換を促された。「いや、僕なんかには抑えはできませんよ。140キロ出るか出ないかのストレートでは三振が取れませんし」。だが“親分”の頼みを拒み切れるはずもない。「文句言えないでしょ、大沢さんには」。新しい役割に挑戦した。 「よくよく考えると、抑えは最後の9回1イニング。先発ピッチャーは5回まで投げるのは当たり前じゃないですか。あえて『1イニングでいいんだ』と軽い気持ちに切り替えました。もっとも、あの頃はストッパーが7回から3イニングも投げたりするような時代でしたけどね」