「もし迷ったら●●●!」スカウトに転身した松岡功祐が先輩に教わった"鉄則"
【連載⑦・松岡功祐80歳の野球バカ一代記】 九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。 【写真】2年連続で首位打者となった鈴木尚典 つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。1989年にコーチからスカウトに転身し、後の横浜ベイスターズ日本一の立役者となる名選手たちを獲得した松岡は、いったい何を考えながらスカウトの仕事に取り組んでいたのだろうか? 1989年11月に開催されたドラフト会議は、12球団のうち8球団が野茂英雄に指名が重複する"野茂ドラフト"となった。野茂の指名権を引き当てたのは仰木彬監督が指揮を執る近鉄バファローズ。 野茂を獲得できなかった大洋ホエールズは、東北福祉大学の佐々木主浩を指名。佐々木はその後"ハマの大魔神"と呼ばれる絶対的な抑えの切り札になり、1988年ドラフト1位の谷繁元信とバッテリーを組んで、1998年に38年ぶりのリーグ優勝、日本一を実現させることになる。 松岡功祐は1989年にコーチからスカウトに転身した。サウスポーの水尾嘉孝(福井工大)を指名した1990年ドラフトで松岡が担当したのが、4位の鈴木尚典(横浜)だった。身長185センチの外野手は1996年に初めて規定打席に到達し、打率.299をマーク。1997年に打率.335で首位打者を獲得、そして日本一になった1998年には2年連続で首位打者となった。 「鈴木から始まって、いい選手に巡り合うことができました」と松岡は笑う。 1993年ドラフト2位の波留敏夫(熊谷組)、1994年5位の相川亮二(東京学館)、1995年2位の関口伊織(日本通運)、1996年4位の石井義人(浦和学院)、1999年2位の木塚敦志(明治大学)、2000年2位の吉見祐治(東北福祉大)も松岡が担当した選手だ。 大洋ホエールズは1993年に横浜ベイスターズと改称されたが、そのチームの屋台骨を支える有望選手を発掘したのが松岡だった。2007年までの17年間に20人を担当し、入団後もその成長を見守ってきた。 「はじめは東京、千葉、埼玉を担当し、その後は東北にも行くようになりました。コーチをしている時は、『この選手のどこがよくて取ったのか......』と思うこともありましたが、スカウトをやってみてその難しさを実感しました。各地区のスカウトが候補者のリストをつくって、甲子園大会でチェックするんですが、あの場所だとものすごくいい選手に見えるんです」 甲子園という大舞台で実力以上のプレーを見せる選手は数え切れないほどいる。 「2006年夏の甲子園で優勝した斎藤佑樹くん(早稲田実業)がそうでした。大学進学が確実視されていたこともあって『プロに来る可能性はないな』と思っていましたが、リストアップしないわけにはいかない。決勝で投げ合った田中将大(駒大苫小牧)は最高のA評価でしたが、斎藤はそれほどではなかった」 ■先輩に言われた「迷ったら取るな」