「江戸っ子だってねえ!」神田の老舗蕎麦屋で「蕎麦前」から喉越し抜群の「もりそば」まで堪能し尽くす酒飲みの注文
言葉が出ないほどうまい焼鳥
親子煮がやってきた。ははあ、居酒屋であればカツ煮を素通りできない私だが、親子煮は、ほとんど注文したことがなかった。 さっそく箸を突っ込んで、口へ運ぶ。おお!うまい。丼飯もって来い!という気分。親子丼を頼みなさいっての。 これがまた、酒に合うよ。この見た目にも地味で、ボリュームという観点からはむしろ楚々たる感じの親子煮が、日ごろ酒を飲めばあまりものを食べない私の食欲に火をつける。皿ごと口へ運んで流し込み、徳利から直に酒をあおってしまいたい。 ここで思い出す。「神田まつや」の蕎麦前で、焼鳥を忘れてはならないことを。 「焼鳥ください」 「タレと塩、どちらにしますか」 日ごろはタレであるが、口の中は今、親子煮である。 「塩でください」 これまで「神田まつや」の焼鳥をどれだけ食べたか記憶が定かでないか、塩は初めて。レモンを搾り、軽く塩につけ、冷めないうちに口へ運ぶと、あっさりとしているのにほどよい脂が柔らかく、絶品だ。小さな徳利がもどかしいので、一度に2本ずつもらうことにして、焼鳥のふた切れめは、塩の後に、辛子にもつけて、口へ放り込む。 「うまいねえ」 「……」 長く神田に勤めながら「神田まつや」は初めてというケンちゃんは何か言いかけて、言葉を呑んだ。私は、中学生のとき、初めてデートした女の子が、何か言おうとして黙ってしまったことを、ふと思い出した。 「すいまっせーん。お酒」 「2本?」 「うん、2本!」 いいねえ、神田の昼酒。うまいねえ、「まつや」の蕎麦前。
もりでもかけでも大正解
さて、蕎麦を頼もうぜ。私は、いつもの通り、もりそばと決めている。噛めば香って喉越しは抜群。蕎麦の風味と、絶妙なつゆ――多摩っ子の私が江戸っ子だってねえ! と叫びたくなるちょうどいいキレのつゆ―――に、今日もまたしばし痺れるのだ。 「締めはもりですか?」 「うん。ケンちゃんはね。かけそばにしてみたら? 温かいヤツ。うまいよ」 もりと同様、かけも、蕎麦とつゆだけの品だ。バーで言う、ジントニックとか、マティーニみたいなものだろうか。シンプルなところに、その店の実力がはっきり出ている。 私は昔、ある人から、そんなことを聞いた。そのウンチクをケンちゃんに受け売りするのだ。かけそば、食べてごらん、と。 さて、その結果やいかに。 ものの2分とかからずに蕎麦を啜り、つゆを飲み干してケンちゃんいわく、「かけ、うまいですねえ!」 この一言を聞いたしばらく後で、私は自分のもりそばを食べ終わり、蕎麦猪口に残ったつゆに蕎麦湯を足して、はあぁ~うまい! と、老舗旅館の露天風呂にでも浸かっているような気分になったのだった。 (シリーズつづく。第1回から読む) 【プロフィール】 大竹聡(おおたけ・さとし)/1963年東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒。出版社、広告会社、編集プロダクション勤務などを経てフリーライターに。酒好きに絶大な人気を誇った伝説のミニコミ誌「酒とつまみ」創刊編集長。『中央線で行く 東京横断ホッピーマラソン』『下町酒場ぶらりぶらり』『愛と追憶のレモンサワー』『五〇年酒場へ行こう』など著書多数。「週刊ポスト」の人気連載「酒でも呑むか」をまとめた『ずぶ六の四季』が好評発売中。