現象学解釈の「挫折」…なぜ20世紀哲学の最高峰の一つ「フッサール現象学」は現在も大きな誤解にさらされたままなのか
ヨーロッパ哲学の最大の難問=認識論の謎を解明した20世紀哲学の最高峰といわれるフッサール現象学は、じつは、その根本から無理解と大きな誤解にさらされたまま現在に至っている。 【もっと読む】「予備知識ゼロ」が有利!…難解なフッサール現象学が誰でもわかる方法 哲学の世界においてフッサール現象学はどのように扱われてきたのか。そして、フッサールが残した最高峰の哲学を理解するために、私たちはどんな方法をとればよいのか。 (本記事は、竹田青嗣+荒井訓『超解読!はじめてのフッサール『イデーン』』(12月26日)から抜粋・編集したものです。)
現象学解釈の「挫折」…その前提的背景
フッサール現象学は、存在論哲学のハイデガー、言語哲学のヴィトゲンシュタインとならんで二十世紀哲学の三つの最高峰をなす。しかし現象学の根本動機、根本理念、根本方法は、ここまで大きな誤解に晒され続けており、それは現在にまでいたっている。 フッサール現象学の最大の功績は、ヨーロッパ哲学の最大の難問といえる認識論の謎、哲学的な普遍認識の可能性についての謎を完全に解明した点にある。にもかかわらず、ここまでのところ、フッサール現象学のこの根本動機が明確に指摘されたことはなく、したがって、その解明の方法のエッセンスが明示されたこともない。 従来の現象学の一般的解釈は、「厳密な認識の根本的な基礎づけの試み」、すなわち「正しい認識」(真理認識)のための哲学的基礎理論というものだが、この理解はフッサールの根本動機からは正反対の理解である。もしこうした理解が正しいとすれば、哲学としての現象学はほとんど重要性をもたない古い形而上学の遺物にすぎない。現状は、この理解の上に、さまざまな現象学批判が流布されているのである。 二十世紀の現象学解釈の大きな流れは二つある。 一つは、直接の高弟であるハイデガー、フィンク、ラントグレーベなどから受け継がれている理解で、ここではフッサール現象学の大きな意義は、ハイデガー存在論─実存論の先駆をなした点にあるとされる(ハイデガー存在論、メルロー゠ポンティ身体論という重要な現象学系哲学の源流、という位置づけは最も一般的だ)。 もう一つは、こうした一般的現象学理解の上に立つ、相対主義、そしてそれと対極にある客観主義からの批判論である。フッサール現象学は厳密な哲学的認識の根本的な基礎づけを試みたが、総じて主観主義や意識主義に陥って失敗に終わったという批判(ローティ、ハーバーマス)。またこうした厳密な認識の基礎づけ主義自体が形而上学的「真理主義」の試みである、というポストモダン相対主義からの批判などである(デリダ、フーコー)。 け加えると、近年、現象学を、批判的にではなく心理学その他の学問に応用しようとする流れも生じているが、ここでも認識論の解明という根本の動機はほとんど受けとられていない。いずれにせよ、これらの評価、解釈、批判は、現象学の根本方法が何であるのかについての大きな誤解、あるいは無理解にもとづいている。 フッサールのテクストはヘーゲルとならんでその難解さで双璧である。そのためそれについての解釈や解説もひどく難解である。この理由で、一般の読者には、解釈や批判の妥当性を判断すること自体が至難の業である。そのことは、現象学理解がこれほどまで長い誤解に晒されていた理由の一つといってよい。 この状況を打開するには、それゆえ、思いきった議論の簡明化が必要である。
竹田 青嗣、荒井 訓