家康がたった2年で将軍職を秀忠に譲ったことで豊臣方の期待は完全に打ち砕かれた…秀頼への威圧、江戸と駿府の二元的政治。家康征夷大将軍任官の意義とは
松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第44回で関ヶ原での本戦は東軍の勝利で終わり、大坂城で関ヶ原の戦勝報告をおこなった家康。しかし、茶々(北川景子さん)からは、茶々の次男・秀頼と孫娘・千姫との婚姻を約束させられて――といった話が展開します。一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。今回のテーマは「家康征夷大将軍任官の意義」です。 【図】家康と秀忠の二元的政治の仕組みがこちら * * * * * * * ◆征夷大将軍任官 慶長八年(一六〇三)二月十二日、家康は伏見城に勅使を迎え、待望の征夷大将軍に任ぜられた。同時に、源氏長者、淳和・奨学両院の別当に任じられ、牛車・兵仗も許され、さらに右大臣に昇任した。 三月二十一日には上洛して二条城に入り、二十五日には将軍宣下の御礼として参内した。後陽成天皇と対面し、三献の儀があった。この参内にあたって、家康は天皇・女院らに多額の礼物を贈っている。また同時に歳首も賀している(年賀の礼)ので、別途、金銀や品々を進上した。 こうして、将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いたことは、家康にとってまことに意義が大きかった。関ヶ原の合戦後に天下の実権を握り、実質的に天下人になったにもかかわらず、豊臣公儀のもとでなお秀頼の臣下という地位に甘んじざるをえなかった。ところが将軍に就任したことにより、新たに徳川公儀を打ち立て、その実質化に向けてたしかな一歩を踏み出すことが可能になったのである。
◆秀頼との関係 たとえば、秀頼との関係についてみると、諸大名が歳首を賀する順序でいえば、将軍就任以前は大坂城の秀頼が先で、伏見城の家康が後であった。家康自身も秀頼の臣下の立場にあるため、慶長七年(一六〇二)には三月十四日に、翌八年には二月八日に、それぞれ歳首を賀するため大坂に下っている。 ところが、将軍就任以後は、豊臣公儀と並ぶ徳川公儀という新たな権威を手中にしたことにより、家康が年賀のために大坂へ下ることはなくなった。諸大名の秀頼への年賀もまた、幕府をはばかって次第になくなっていった。 しかしながら、この段階ではなお大坂城の秀頼のもとで、豊臣公儀は厳然として残っていた。家康の将軍就任以後も、親王・諸公家・諸門跡などが、歳首を賀するために大坂へ下ることが絶えることはなかった。 家康と秀頼との位階・官職についてみても、朝廷の対応はまったく平等で、前年の慶長七年(一六〇二)正月に家康が正二位から従一位に昇進すると、秀頼もまた従二位から正二位に昇進している。この年二月に家康が右大臣に昇任すると、わずか二ヵ月後の四月には、秀頼も内大臣に昇任するというように雁行していた。 家康の将軍就任と同時に、秀頼も関白に任じられるとの噂も流れたようで、正月二日付で毛利宗瑞(輝元)が国許に宛てた書状によると、「内府様が将軍になられ、秀頼様が関白になられたとのことです。めでたいことです」といっている。 関白就任の件はもとより風聞でしかなかったが、秀頼がいずれは関白になり、政権に復帰する可能性があるというのが、当時の人々の間でほぼ共通の認識だったことを示している。
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