プロレスはいつ日本に上陸し、なぜ定着したのか? 知られざる1954年のプロレスブーム前史
現在Netflixで配信中の『極悪女王』。話題作としてさまざまな側面から語られているこの作品だが、劇中では主人公・ダンプ松本らが所属する団体である全日本女子プロレスの選手たちがバスで全国を移動し、大小の会場で試合をする様子が描写されていた。 『極悪女王』は、1980~1985年ごろを舞台にした作品である。つまり1980年ごろには、ビッグマッチが開催される大会場から地方のショッピングセンターの駐車場のような小会場まで、「チケットを買った観客がプロレスを観に来る」という文化が日本全国に根付いていたことになる。『極悪女王』は80年代の話だが、現代においても、プロレスの存在自体に違和感や驚きを感じる人は、ほとんどいないはずだ。実際に観戦しない人や、プロレスのことをよく知らない人にとっても、「プロレス団体が日本にあって、日常的に試合をしていること」自体は当たり前になっているのである。 これはなんだかちょっと変なことだと思う。国産の格闘技ならばまだわかるが、プロレスは西洋で生まれ、現在の形に変化するのにはアメリカの影響が濃かった競技である。日本人にはそもそも大して馴染みがなかったはずだ。それがなぜ「あるのが当たり前」になったのか。プロレスは、一体いつ上陸し、なぜ日本に定着したのだろうか。 そんな疑問に応える書籍が、小泉悦次の『1954 史論―日出ずる国のプロレス』(辰巳出版)である。タイトルの「1954」は、西暦の1954年を指す。この年の2月に日本プロレスがシャープ兄弟を招き、力道山・木村政彦のタッグと全国で激闘を展開。この興行によって日本で爆発的なプロレスブームが発生し、日本においてプロレスが定着した、というのが、日本プロレス史の定説になっている。ではその前、1945年の敗戦から1954年に至るまでの9年間には何もなかったのかと言われれば、実は色々あったのである。本書は、今まであまり語られなかったこの時代にスポットを当てた一冊だ。 ヤクザや興行の本も読んだりして、通り一遍のことは知ったつもりになっていた自分も、一読して「へえ~~」と唸らされる部分が多かった。力道山が大きな存在であるのは間違いないが、本書では力道山のタッグパートナーであり壮絶なリアルファイトの相手となった木村政彦、大阪を拠点に全日本プロレス協会(ジャイアント馬場の全日本プロレスとは無関係)を立ち上げて力道山より先に日本でのプロレス興行を実施した柔道家・山口利夫、ボードビリアンの兄たちと開催していたコミカルなスポーツショーをベースに日本初の女子プロレスラーとなった猪狩定子の3人にも注目。力道山を含めた4人の動きを中心に、胎動期の日本プロレスの歩みを追っている。 本書によれば、まずそもそも日本で初めてのプロレス興行は1954年ではなく、1887年から断続的に日本でのプロレス興行が行われてきた。うまくいっていればそのまま日本にプロレスは定着していたはずで、1954年にようやくプロレスが大人気になったということは、詰まるところそれ以前の試みは失敗したということである。 それら戦前のプロレスに関する試み、そして太平洋戦争と日本の敗戦を挟み、GHQによる統治時代がやってくる。このGHQが日本とプロレスの関係に大きな影響を及ぼしたことが、本書では詳しく解説される。冷戦という状況下で、日本の世論をうまく制御しながら与えられる娯楽として、プロレスはうってつけだったのだ。 プロレスにはそもそも、政治的な娯楽という一面がある。「自分たちを代表する正義の自国レスラーが、外からやってきた悪の外人のレスラーと戦い、卑怯な攻撃に苦しめられながらも逆転し、最後に勝つ」という素朴だが強靭な構図は、20世紀半ばまで日本をはじめとする各国で見られた。日本生まれ(実際には朝鮮半島出身だが)の力道山が空手チョップで非道な外人レスラーを倒し、その様子に敗戦直後の日本人観客は熱くなった……とよく語られる初期の日本のプロレスの構図は、ナショナリズムと密接に結びついている。 おまけに、照明を強く当てることのできる室内競技であるために中継の難易度が低く、開始時間も終了時間も自由に設定することができるプロレスは、初期のテレビ放送においてもとても便利な存在だった。赤狩りとテレビ普及の時代だった20世紀半ばの時期、大衆に与える娯楽としてこれほど都合のいいものはなかった。本書によれば、GHQ内の参謀第2部は保守的な路線をとっており、娯楽とスポーツの力で日本人の目をそらし、日本の赤化を阻止したいと考えていた。この目標のため、戦前からの日本人有力者たちが復活し、日本におけるプロレス興行は第一歩を踏み出すことになる。 なかば「国策」的な産業として始まった日本のプロレスだが、その歩みは一筋縄ではいかない。戦前から続く日本独特の興行システムと裏社会とのつながり、グレーな部分も併せ持つ力道山という人物のキャラクター、まだ海のものとも山のものともつかなかったプロレスを軌道に乗せるための試行錯誤と、ドラマチックなドタバタがこの9年間には詰まっている。それらの経緯は、是非とも本書を読んで確かめてほしい。昭和プロレスのファンでなくとも、「へえ~」と言いたくなるようなエピソードが満載である。 さらにもうひとつ、本書の注目したい点が、1954年の暮れに開催された「力道山対木村政彦」の一戦について、あまり今までに読んだことのない角度から言及している点だ。「昭和の巌流島」と煽られたこの日本人エース同士の一戦は、途中からリアルファイトになってしまった試合として知られ、最後には力道山が木村に対して一方的に猛攻を加え、木村は大流血に追い込まれた。ミステリアスな点も多々ある試合であり、いまだに昭和プロレス史の巨大な謎として語り継がれている。 この伝説の一戦に対して、本書は試合の1ヶ月以上前から木村と力道山の間で戦われた舌戦から実際の試合内容に至るまで、新聞などに残された発言や試合の記録を丹念に拾い、謎に満ちた一戦の正確な姿を復元していく。さらにこの一戦を「通常のプロレスの試合」として見た時に浮かび上がってくる不合理なポイントを書き出すことで、「プロレス史に残る事件」として語り尽くされたかに見えたこの一件の真の姿を推測する。 当事者やその場に居合わせた人々によって様々に語られているため、自分もこの「昭和の巌流島」についてはどこか伝説的な印象を持っていた。が、本書は徹底して「プロレスとしてこの試合はどうだったのか」「関係者にはどのような利害関係があったのか」「ここでこの立場の人間がこうすべきではなかったか」という点を詰めるため、徐々にロマンチックな部分が剥がれ落ちていき、「しくじった試合・しくじった興行」という側面が見えてくる。その結論がどのようなものであるかも、本書の見どころである。 というわけで本書は、これまでの定説を大きく覆すというよりは、「いかにして定説が成立したか」という過程にスポットを当てた本である。初めて知る事実も多いし、日本の女子プロレスラー第一号である猪狩定子の証言が掲載されている点だけをとっても、プロレスファンならずとも目を通しておいた方がいいと言える。巨大なイベントであった「プロレスの成立」というドラマを理解することは、現在に続く日本の近過去の裏面を知ることと同じなのだ。
しげる