コロンビア墜落 「凱旋」の可能性もあった元Jリーグ組
かつてマンUやトリノも航空機事故の犠牲に
サッカークラブが旅客機事故の犠牲になったケースは過去にも存在した。 《スペルガの悲劇》 1949年5月4日、イタリアのセリエAでトップクラブの地位を不動のものにしていたACトリノは、親善試合を行ったポルトガルのリスボンから帰路に就き、トリノ市内への到着も間もなくという段階に入っていた。その日のトリノ周辺は激しい雷雨が続いており、視界は決して良好ではなかった。視界の悪さが原因となり、トリノの選手やチームスタッフら31名を乗せたフィアット社製のプロペラ機は、トリノ近郊にあるスペルガ聖堂の裏の外壁に衝突。乗客・乗員31人全員の死亡が確認された。 この時、イタリア代表選手を何人も抱えるトリノは国内リーグで4連覇を達成しており、5連覇も時間の問題とされたが、クラブのレギュラークラスの選手がみな死亡したため、残りの4試合は各クラブのユース選手だけを出場させる特例が認められ、5連覇は達成した。しかし、クラブの弱体化は避けられず、次にセリエA優勝を果たしたのは1976年のことであった。 《ミュンヘンの悲劇》 悲惨な旅客機事故といえば、1958年にドイツのミュンヘンで発生した事故ではマンチェスター・ユナイテッド(イングランド)の主力選手8名を含む23名が命を落としている。ユーゴスラビア(当時)のベオグラードでの試合を終えたユナイテッドは、チャーター機が長距離用のものではなかったため、ドイツのミュンヘン経由でイギリスに戻ることにした。ミュンヘンから離陸しようとしたが、離陸が可能になる速度に上昇することができず、三度目のトライでチャーター機は空港のフェンスを突き破って、その先の空き家に激突し炎上した。 事故によって、稀代のプレーメーカーとしてその後のキャリアが期待された中心選手、ダンカン・エドワーズら8人の選手が命を落としたが、攻撃的な選手のボビー・チャールトンや監督のマット・バスビーは救出された。バスビー監督はクラブの再建に尽力し、1968年の欧州チャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグ)でイギリス勢としては初となる優勝を果たし、名門クラブとしての地位を築いていく。