プロ不合格に幻の長嶋内閣入り。“日本一”栗山監督を作った2つの転機
日ハムが4勝2敗で広島を破り、10年ぶりに日本シリーズを制した。自身、2度目となる日本シリーズでの栗山英樹監督(55)の短期決戦用の采配も見事だった。栗山監督は1983年にドラフト外でヤクルトに入団しているが、その際のスカウト責任者が、THE PAGEでドラフト解説をしてもらっているお馴染みの元ヤクルトの片岡宏雄氏だった。栗山監督の入団には驚くべき秘話があり、その後栗山監督は、何かの転機があるたびに片岡氏に電話で報告。リーグ優勝の際にも、「おかげさまで優勝ができました。片岡さんにプロの世界に入れていただいたおかげです」と丁寧に電話をよこしたという。 片岡氏が言う。 「彼は、いわゆるテスト入団だ。当時は今と違いドラフト外という枠があった。テストを見たが、バッティングは非力。センスを感じさせたが、とてもプロのレベルにない。もちろん体力もなかった。守備は内野手でノックを受けていた。確か元々は投手だったそうで肩と足はまあまあ。鍛えれば、足を生かして守備固めくらいなら使えるかなという程度で、テストの内容としては不合格だった。 しかも、国立大出身。教職免許も持っているそうで、これから先の人生を考えたら、成功しそうもないプロで遠回りすることはない。 私は、本人に直接、“やめておいたほうがいい。プロの世界はそんなに甘くないし、いい大学を出ているんだから就職した方がいい”と一度は断ったんだ」 当時はドラフト外入団が認められており、そのための入団テストを各球団が盛んに行っていた。東京学芸大で野球をやっていた栗山監督も、そのテストに参加、事前にいわゆる“縁故”で、本社の幹部から「栗山という選手が行くから使えるかどうか確かめてくれ」と、一言があったそうだ。片岡氏も栗山監督に注目してテストを見ていたが、終了後、本人には、直接「やめておきなさい」と話したという。 だが、栗山監督は、そこで引き下がらなかった。 「栗山は、“国立を出たからなんてことは関係ありません。なんとしてでもプロでやりたい。野球が好きなんです。1年で駄目ならクビでいいのでチャンスをいただけませんか”と食い下がってきた。テストを見ていてわかったが、練習、野球に取り組む姿勢は驚くほど真面目で、一生懸命だった。頭もよかった。そこまで本気で、努力を続ければ、守備固めくらいで出るようになれるかなと。まあ縁故でもあったし(笑)、ドラフト外での入団を認めた。 だいたいこういう選手は、入ってから周りの選手とのあまりものレベル差に驚いて終わってしまうものだが、彼は違った。当時佐藤孝夫という打撃コーチがいたんだが、彼とのマンツーマンで徹底して鍛えた。栗山はへこたれずその指導についていき、努力を続けた。外野に転向しスイッチに取り組みはじめて、3年目くらいからレギュラー格になった。最後、怪我や病気で苦しみ若くして引退することになったが、スカウトとしても、努力でここまでなれるものかと教えられた選手だった」 栗山監督は、1年目は2軍暮らしだったが、2年目からは外野手とスイッチヒッターに挑戦、3年目の後半には、「1番・センター」でレギュラーをつかみ、107試合、打率.301、出塁率.329の結果を残した。5年目の1988年は規定打席に届かなかったが打率.331をマーク、翌年は「2番・センター」で開幕からレギュラーに定着して、初の規定打席を達成して、犠打37、ゴールデングラブ賞を獲得した。 だが、1990年に野村克也監督が就任すると定位置を失い、右肘の故障やメニエール病の再発でめまいに苦しむなど、29歳の若さで引退した。栗山監督は、引退後は爽やかなキャラでテレビのキャスター、野球解説者、ジャーナリスト、あるいは教育者としても活躍するようになったが、引退時はもちろん、その後も折にふれ片岡氏に連絡や相談、挨拶をしてきたという。