【追悼‘24】商店街でチワワと戯れて…本誌が見た「世界のオザワ」小澤征爾さんの意外な表情
’24年も多くの著名人が惜しまれつつ旅立っていった。過去に本誌が紹介してきた記事などをもとに、往時の活躍をふり返り、故人を偲ぶ──。 【画像】駅前の商店街を散歩する病気療養中の小澤征爾さんと娘の征良さん ◆『N響事件』が転機に 「指揮者小澤征爾は、2月6日、都内の自宅にて安らかに永眠いたしました。享年88歳。死因は心不全でした」 「世界のオザワ」として活躍した小澤征爾さんの死の一報は、事務所の公式ホームページでもたらされた。80歳を過ぎても精力的にタクトを振っていた小澤さんだったが、近年は公の場には車イス姿で現れるようになっていた。 小澤さんは1935年、中国・瀋陽(旧奉天)で生まれた。最初はピアニストを志したが、中学生のときにラグビーで右手人差し指を骨折したため、指揮者に転向した。指揮者の齋藤秀雄氏の弟子となって桐朋学園短大の音楽科を卒業後、1959年に渡仏。パリに滞在中の同年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、審査員だったシャルル・ミュンシュをはじめ、カラヤンやバーンスタインなどの名だたる巨匠に師事した。 若くして世界の舞台で活躍していた小澤さんの転機となったといわれるのが1962年に起きた『N響事件』だ。小澤さんが26歳~27歳のときにNHK交響楽団が小澤さんを客演指揮者として招聘していたが、やがて楽団員たちとの軋轢が生じることとなり、演奏をボイコットされたのだ。この事件をきっかけに国内では音楽活動をしないと決めた小澤さんはより世界に目を向けるようになったという。 以後、海外での小澤さんの評価はさらに高まっていき、シカゴ交響楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など、数々のオーケストラを指揮して「世界のオザワ」と呼ばれるようになる。1973年にはアメリカ五大オーケストラの一つであるボストン交響楽団の音楽監督に就任、’02年まで29年間務めている。一人の指揮者が30年近くも同じオーケストラの音楽監督をすることは異例だという。 国内でも、1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団の創立に関わったほか、恩師の齋藤秀雄氏の没後10年のメモリアルコンサートから毎年長野県松本市で開催される『サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現セイジ・オザワ 松本フェスティバル)』に発展させるなど、戦後日本のクラッシック界をけん引してきた。1998年には長野五輪の音楽監督も務めていた。 ◆愛犬のチワワを抱き上げて頬ずり を だが、晩年の小澤さんは常に病と闘っていた。’05年ごろから体調を崩すことが増えたのだ。本誌が、そんな小澤さんに遭遇したのも、’06年の1月に帯状疱疹、慢性上顎洞炎、角膜炎と診断され、海外で予定されていた公演をキャンセル、自宅で静養していたときだった。 ’06年3月下旬の天気の良い昼下がり、自宅近くの商店街を小澤さんと娘の征良さんが散歩していたのだ。キャップを被りサングラス姿の小澤さんは愛犬のチワワを連れていた。和菓子屋の前で注文を待つ小澤さんは動き回るチワワを足で止めたり、抱き上げて頬ずりをしたり。突如、空を見上げて右手でリズムを刻みながら、何かを口ずさむシーンもあった。そして、〝世界のオザワ〟のそんなオチャメな姿に気づくものはいなかったのだ。 この3ヵ月後の6月に小澤さんは指揮活動を再開した。しかし、その後も食道がんや腰の痛みに悩まされ、たびたび休養と復帰を繰り返していた。 小澤さんが水戸室内管弦楽団の総監督をしていたことから、たびたび演奏会に出演することも多かった。水戸の飲食店の店主は、NHKの取材に次のように語っていた。 「懐が深く、誰とでも仲よくなれる人でした。強いお酒が好きでした。オーケストラを聴きに行ったときは、メンバーが集中しているのがわかりましたが、店にいるときは小澤さんはメンバーを大切にしていて、皆でリラックスした様子でした」 タクトを振るときの鬼気迫る迫力とは違って、素顔の小澤さんはかなり親しみやすい人だったようだ。 ご冥福をお祈りします──。
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