目の前で殺された家族、でも「泣くことさえ禁止された」 ガザで人質、イスラエル人女性が振り返る50日間
「しばらくすると、爆発音が聞こえました。家の中で何かが起きたと思い、簡易シェルターのドアを慎重に開けて家の様子を眺めると、玄関ドアが破壊され、少し開いている状態でした」 ヘンさんは慌ててシェルターに戻る。家族全員、恐怖に震え、ヤムさんはユダヤ教の祈りの言葉をずっと口にしていた。死の恐怖を感じたのは間もなくだった。 「ユダヤ人だ!ユダヤ人だ!」。叫び声が家の中から聞こえてくる。 「連中がシェルターに入ってきたら、全員殺されるだろうと思いました。ナダブはベッドの板を手に、連中を殴る準備をしていました」 銃撃音は聞こえなかった気がした―。ヘンさんはそう振り返るが、床には複数の薬きょうが転がっていた。ドア越しに発砲したハマス戦闘員。簡易シェルターに侵入してきたため、ナダブさんは殴りかかろうとしたが、瞬時に倒れた。胸部などを2、3カ所撃たれていた。 ハマス戦闘員はヘンさんらに外に出るように命じ、1人ずつ簡易シェルターを後にした。「倒れたナダブの上をまたがざるを得なかったのを覚えています」
1人ずつ歩いていたが、長女ヤムさんが突如気を失い倒れた。次女アガムさんがヤムさんを抱え風呂場へ向かう。息子たち2人はハマス戦闘員に連れられ屋外へ。ヘンさんは息子たちの様子を見にいったん外へ行き、風呂場へ戻ると、ハマス戦闘員がヤムさんの顔面に銃を撃ち込んだのを目撃した。 「自分が目にしていることを信じられませんでした。私はヤムの手当てをすることもできず、別れの言葉も言うことができずにまた外に出てしまったんです」 ヘンさんはアガムさん、長男ガルさん、次男タルさんと共にガザに連行された。 ▽「俺たちの家族は殺害され、故郷を追われた」 ガザでの拘束生活では、看守たちとも会話があったとヘンさんは言う。特に覚えているのは、パレスチナ問題を語ったときのことだ。看守の1人がまくし立てた。「俺たちはユダヤ人に家族を殺されたパレスチナ人の子孫だ。1948年、俺たちは故郷を追われたんだ」 余計な緊張状態を作り出さないよう、パレスチナ問題については踏み込んだ会話を避けた。一方、ヘブライ語を少し理解する看守にアガムさんがヘブライ語を教えるなど、良好な関係作りに努めたという。