能登地震と豪雨、二重被災のスーパー奮闘「復興へ明かりともし続ける」「皆で新しい町つくる」
冷たい雨と風が吹きつける。古里へのいとおしさがこみあげる。関連死を含め500人以上が犠牲となった能登半島地震は、1日で発生から1年。昨秋の豪雨は歯を食いしばって生きる被災者の心をくじいた。それでも、人々は町の復興を信じて歩む。年の瀬、記者は石川県輪島市町野町の被災スーパーを訪ねた。 【写真】地震から1年がたった町を歩く「もとやスーパー」の社長、本谷一知さん 12月31日。みぞれのような雨が降る中、「もとやスーパー」は変わらず営業していた。近くの仮設住宅から来た女性(77)は「ここなら何でもそろう。特にお刺し身がおいしいんだよ」。この日は地元産タイの刺し身を買った。 全壊した自宅から奇跡的に救出された宮下さんは、130キロ離れた小松市に2次避難。仮設の抽選に当選し、最近ようやく町野に戻ってこられた。「いろんなことがあった。ようやく1年が終わるんやね…」 もとやスーパーは1961年創業。米にパン、生鮮食品、日用品が並び、地震前は約2千人いた町野住民の暮らしを支えてきた。 2024年元日は、年1回の定休日だった。地震発生時刻の午後4時10分、社長の本谷一知さん(47)は「日本が沈没するような」激烈な揺れに見舞われた。 店は倒壊を免れたが、外に出ると見慣れた光景が一変している。建物が崩れ、道路の寸断で町は孤立。15人が亡くなった。 店には直後から客がやって来た。停電した店内を懐中電灯で照らし、食品などを買っていく。それを見た本谷さんは休まず営業しようと決めた。 物資が集まり、炊き出しが行われるスーパーは町の救援拠点になった。春には駐車場で復興支援のイベント。寒さも和らぎ、住民にも少しずつ笑顔が戻る。近くに仮設住宅もできた。 9月。復興に本腰が入り始めた能登半島を豪雨が襲う。濁流が町をのみこみ、3人の命を奪った。スーパーも高さ2メートルの浸水。移動販売車と自家用車はすべて流された。「ここでの商売はもう無理だ」。ついに休業を余儀なくされた。 心が折れかけた本谷さんや店員を支えたのが、全国から駆け付けた延べ千人以上のボランティアたちだ。神戸の団体「チーム神戸」からも神戸学院大の学生や兵庫県立大の院生らが清掃などに取り組んだ。 「阪神・淡路を経験した神戸のボランティアはパワフル。こちらのニーズを的確にくみ取ってくれ、ありがたかった」と本谷さん。11月には元の建物で営業を再開。ボランティアの宿泊スペースも開設した。 本谷さんの次男(19)は大学進学をいったん諦め、今は店を手伝う。「体育の教員になりたいけど、やりたいときに目指せばいい。今はお客さんと話すのが楽しい」 町にはまだ地震と豪雨の爪痕が生々しい。住民は250人以上減った。本谷さんは言う。「時の流れを遅く感じた1年だったが、復興に向けて店の明かりをともし続ける。皆で新しい町野をつくっていきたい」 店は「1・1」も開ける。(杉山雅崇)