59歳で亡くなったイタリアW杯得点王スキラッチさんを悼む…ジュビロ磐田で日本サッカーを叱咤激励(六川亨)
【六川亨のフットボール縦横無尽】 元イタリア代表FWの"トト"スキラッチこと、サルバトーレ・スキラッチ氏が9月18日、結腸ガンのために逝去した。 【 顔 を 見 る 】久保建英が「鬼の形相」で不満をアピール!!! 享年59歳だった。 近年は、20世紀のスーパースターたちの訃報が相次いでいる。 元ドイツ代表DF/MFの「皇帝」フランツ・ベッケンバウアー氏の急逝(1月7日=享年78歳)を知ったのも、つい最近のような気がしてならない。 それにしてもスキラッチ氏の59歳は若過ぎる。 現役時代と違って髪の毛はフサフサになり、穏やかな表情になっていただけに「人生、これから!」というタイミングでの悲しい知らせだった。 彼のプレーをナマで見たのは、1990年イタリアW杯が最初だった。 当初は控え選手だったものの、W杯開幕戦のオーストリア戦で交代出場から決勝点(1-0)を決めるとグループリーグ第3戦のチェコスロバキア戦からスタメンに定着し、この試合でも先制点を決めた(2-0)。 その後もコンスタントにゴールを重ね、イングランドとの3位決定戦まで全7試合に出場し、計6ゴールを決めて得点王とMVPのタイトルを獲得した。 特異なゴールへの嗅覚を生かし、ペナルティーエリア内での1タッチシュートが武器だった。 これは、1982年スペインW杯優勝メンバーのひとりで得点王(計6得点)にも輝いたFWパオロ・ロッシと同じ。 体のサイズの大きさを問わないイタリアらしいストライカーの系譜でもあった(スキラッチは身長171センチ、ロッシは176センチ=2020年12月9日に64歳で逝去)。 そんなスキラッチが1994年のJリーグに参戦した。 Jリーグの誕生から1年遅れで昇格したジュビロ磐田の"目玉選手"であり"切り札"でもあった(イラン代表FWアリ・ダエイの入団が進まなかったという事情もあった)。 しかし、当時すでに29歳。爆発的なスピードがあるわけでもなければ、ブラジル人選手のように華麗なテクニックがあるわけでもない。 「周囲のお膳立てがあってこそ生きるストライカー」と思っていただけにJリーグで成功するかどうか、半信半疑だった。 というのも、1986年メキシコW杯の得点王(計6得点)であるイングランド代表FWのガリー・リネカーが、鳴り物入りで名古屋グランパスエイトに加入したものの、ケガの影響もあって真価を発揮できないでいた。 パサーとしてもドリブラーとしても超一級品だった元ブラジル代表MFのジーコ(鹿島アントラーズ)、独特の「ガニ股ドリブル」でジェフユナイテッド市原(現ジェフ千葉)を牽引した元ドイツ代表MFピエール・リトバルスキーと比べて「タイミング良く<点で合わせる>ストライカー」のリネカーは、味方から良質なクロスが供給されず、類まれな得点嗅覚を発揮できないでいた。 1986年と1990年のW杯に出場し、1988年に西ドイツ(当時)で開催されたEURO(欧州選手権)にも出場しながら、Jリーグでは苦労が多かったリネカー。 一方、スキラッチがイタリア代表で輝いたのは1990年イタリアW杯だけ。まさに同W杯公式ソング「Un 'Estate Italiana」の副題「notte(ノッテ) magica(マジカ)=魔法の夜」のストライカーと思っていた。 ところが"トト"(救世主)のゴール感覚は、いささかも衰えていなかった。入団翌年の1995年は、ブラジル代表MFドゥンガの加入などもあり、34試合で31ゴールという驚異的な数字を残す(Jリーグ通算78試合で56得点)。 驚かされたのは、アジリティを生かしたゴールだけでなく、ドリブル突破からのゴールも簡単に決めていたことだった。 スキラッチ=ペナルティーエリア内での1タッチシュートのイメージが強かったが、ドリブル突破で3人のマーカーを抜いてゴールを決めてみたり、サイドからの仕掛けでチャンスメイクをしてみたり、点を取ること以外でもチームに貢献した。 そうしたプレーを目の当たりにしながら、正直なところ「スキラッチが凄い」というよりも「Jリーグのレベルはまだまだ低い」と憂鬱になった記憶が残っている。 当時のJリーグの守備のレベルは低かった。 それを「勘違いしないで自覚しなさい」と叱咤激励し、レベル向上に貢献したのが、スキラッチを含めたJリーグ黎明期の外国人選手たちだったことは間違いないだろう。 Jリーグは今季、開幕31周年を迎えた。功労者スキラッチの早過ぎる訃報に改めてご冥福をお祈りします。 (六川亨/サッカージャーナリスト)