13歳との不倫は純愛? それとも洗脳? 「メイ・ディセンバー事件」から問う人生を“物語化”してしまうことの怖さ
「私たちは、世間の厳しい目に負けず、純愛を貫いた運命の恋人たち」?
エリザベスは、グレイシーの不思議な魅力に興味を抱く。無邪気な笑顔を振り撒き、20歳以上も年下の夫に子供のように甘えるこの女性は、過去の事件をいったいどう捉えているのだろう。エリザベスは、グレイシーの一挙手一投足に目を光らせ、その姿を擬態しながら、彼女の心のうちを探っていく。そして段々と、グレイシーが自分だけの「物語」をつくりあげ、その中でだけ生きているのだと理解する。役者として、ひとりの女性としてグレイシーの生き方に興味を抱いたエリザベスは、ジョーや元夫、子供たちなど、周囲の人々に近づき、事件の隠された一面を見つけようとする。 「メイ・ディセンバー事件」を着想源にした映画は、過去にもつくられている。ゾーイ・ヘラーの同名小説を原作にした『あるスキャンダルの覚え書き』(リチャード・エアー監督、06)では、定年間近の女性教師バーバラ(ジュディ・デンチ)が、魅力的な新人教師シーバ(ケイト・ブランシェット)に恋をし、異常な執着心を抱く。そしてバーバラは、シーバが教え子の少年と関係を持っていると知り、このスキャンダルを利用し彼女を支配しようとする。ここで描かれるのもまた、自分の信じた「物語」を相手に押し付けようとする、歪んだ人間の姿だ。 『メイ・ディセンバー』においてグレイシーがつくりあげた「物語」とはこうだ。「私たちは、世間の厳しい目に負けず、純愛を貫いた運命の恋人たち。実際の年齢差は関係ない。精神的には、彼の方が私よりずっと大人だったから」。その「物語」を信じて、グレイシーとジョーの夫婦関係、そして一家の絆は成り立ってきた。だが、外からやってきたエリザベスは、その物語に疑問をつきつける。その関係は本当に愛と呼ぶべきものだったのか。大人が子供を虐待し洗脳しただけではないのか。長年信じてきた物語に疑問を呈され、グレイシーは苛立ち、ジョーの心はぐらぐらと揺れ動く。 グレイシーは、自分に都合のよい物語をつくりあげ、周囲の人々を、そして自分自身をも支配する身勝手な人物だが、エリザベスもまた、自分が発見した「物語」に固執する人だ。彼女が導くグレイシーとジョーの本当の関係性は、あくまで自分の映画のために想像したものでしかない。そもそもエリザベスは、自分は才能豊かな俳優で、ゴシップから芸術をつくりだすアーティストとして振る舞うが、それもまたひとつの「物語」にすぎない。 人はみな、自分がつくりあげた物語しか信じようとしないものだ。他人から「それは暴力だ」と非難されても「これは愛情からくる行為だ」と言い張り、相手を支配する人が大勢いるように。同様に、私たちは他人の人生を勝手に物語化することに夢中になる。ゴシップめいた話に飛び付いては、当事者たちの思いを無視し、その物語を消費する。伝染力が強いという意味では、感動や美しさをまとった物語のほうがより危険かもしれない。 鏡を使った演出を多用し、ふたりの女性が互いを見つめ、相手を擬態していく様を描く『メイ・デイセンバー』の構造は実に複雑だ。ジュリアン・ムーアは、実際のメアリー・ケイ・ルトーノーに似通った姿としてグレイシーという女性をつくりあげ、そのグレイシーの姿を擬態するエリザベスという女性を、ナタリー・ポートマンがつくりあげる。ふたりの女性のなかに、何人もの女性たちの姿が浮かび上がり、いったい自分はいま誰の姿を見ているのかと、思わずめまいがする。