ブル中野 女帝が明かす″イジメ、大ケガ、大病、米国遠征″「全女はスーパーブラックでしたね(笑)」
殿堂入りの吉報を届けるべく、世界最大のプロレス団体・WWE(米国)の担当者が接触を図った際の、ブル中野(56)の反応は「恐怖」だったという。 【未掲載カット】「女帝」時代ではみられなかった 爽やかスマイルのブル中野…! 「『試合のオファーじゃないよな?』って怖くなったんです(笑)。たしかに私はWWF(現WWE)の女子王座を獲りましたけど、悪役だからブーイングしか起こらなかった。それに、あの頃から時間が経ちすぎている。だから『受賞する意思はありますか?』と聞かれて涙が出ました。レスラーとして認めてもらえていたんだ、やってきたことは無駄じゃなかったんだって……」 ヒール(悪役)でありながら、乱闘ではなく技の多彩さ、実力でブル中野は日米でトップに君臨した。 だが、「女帝」と畏怖された輝かしい経歴のウラには想像を絶する苦闘があった。 「中学卒業後の’83年に全女(全日本女子プロレス)に入門したのですが、15歳なんて世間のことも、先輩との上下関係も、何もわかっていないじゃないですか。だから『コイツはなってない』と先輩に殴られる。新人だから試合では何もできず、リングの上でもボコボコ。冗談抜きで毎日、殴られていましたね。殴られ過ぎて『今日、セコンドでミスしたから5発かな』とか、予想できるようになるんです。で、3発で済んでラッキーと思ったり(笑)」 当時は「常に口の中が切れていました」とブル中野が振り返る。 「合同練習になると、先輩一人につき10個の技を受ける”100発投げ”というシゴキがありました。ほとんど半殺しです。いま思えば、スーパーブラックだったと思います(笑)。毎日泣いていましたし、寝るときには『朝が来ませんように』って願っていました」 どうして逃げなかったのか――という記者の問いに、ブル中野は「プロレスが好きだから」と即答した。 「当時は女子プロレス団体が全女しかなかった。辞めたらプロレスができなくなる。そう思って我慢した。そうするうちに『強くなって、コイツらリング上でぶっ飛ばしてやる』という考え方になった」 入門から2年後にダンプ松本(63)の「極悪同盟」に加入。快進撃が始まった。 「アメリカ遠征がとにかく楽しかった。当時の全女のレベルは世界一。試合に関してまったく不安はなかったし、どんなお客さんが来ても何を喜んでくれるかが瞬時にわかった。会場は盛り上がりましたね。唯一、大変だったのが移動。アメリカってエアチケットがバーッと送られてきて、会場までは自分たちで行かないといけないんです。ホテルも電話帳を見ながら自分たちで探さなきゃいけない。近所の住人に連れて行ってもらったり、アメリカのレスラーの車に相乗りさせてもらったり、毎日ドタバタでした(笑)」 だが115㎏の巨体を使っての全力ファイトの代償は大きかった。’97年、米遠征中に左ヒザの靭帯が2本断裂して引退を決意。病院で調べると足の甲に骨折の跡があり、背骨も欠けていた。 飲食店経営など、第二の人生で奮闘する中で大病も患った。肝硬変だ。 「腹水でお腹がパンパンになり、ずっと耳鳴りがしている状態で……病院に行くとそのまま2ヵ月、入院になりました」 退院後、ユーチューバーとして再起を図っていた不屈の女帝に届いたのが、殿堂入りの吉報だった。 「ほしいベルトは全部獲れたし、殿堂入りも果たした。この先の目標は、本名の青木恵子としてブル中野に勝つこと。ブル中野でいたときが一番幸せだったといまでも思っていますが、それを超えるような幸せな人生をおくりたい」 女帝の目はらんらんと輝いていた。 『FRIDAY』2024年3月29日号より
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