「5人いれば食っていける」落選にも飄々 関淳一・元大阪市長が死去
大阪市長を2期4年務め、市政改革に取り組んだ関淳一氏が、88歳で亡くなった。ゆかりのある人たちは、改革の軌跡を振り返るとともに、その人柄をしのんだ。 【写真】市職員の厚遇問題を巡る労使交渉にのぞむ関淳一大阪市長(中央)=2005年2月16日 「現在までつづく大阪府市の行財政改革の原点となったのが、関市政だった」。関市長のもとで市政改革推進会議のトップをつとめた上山信一・慶大名誉教授は、関氏の市政運営をそう評する。 関氏の任期2年目の04年以降、市では職員へのヤミ退職金・年金、スーツ支給のほか、全庁的なカラ残業など、不適切な公費支出が次々と明らかになった。長年にわたる市当局と労働組合との「もたれ合い」の中で、生まれた職員厚遇だった。 上山氏は、関氏から「この市役所には変えないといけない問題がたくさんあるんだ。よろしく頼む」と頼まれ、外部有識者として市政改革に参画することに。当初は好々爺(こうこうや)然とした関氏だったが、「市政改革を担う中、日々顔つきが変わり、迫力のある政治家に変わっていった」と振り返る。 ■長年の各党相乗り、出直し選挙で一転 5千人超の職員削減、予算規模の2250億円縮小といった関氏の抜本的な改革案に対しては、市内部や議会で抵抗が強まった。すると関氏は05年、出直し選挙を決断する。
朝日新聞社