長寿「きんさん」の息子も長寿 母から教わった長生きの秘訣 #ニュースその後 #令和の子
淡い紫のシャツに薄いグレーのジャケット、胸ポケットからのぞかせたハンカチーフが人目を引く。通りかかった若い女性が思わず「わあ、すてき」と笑いかけた。 成田幸男(ゆきお)さんは、名古屋の繁華街・栄を足取り軽く歩く。90歳を超えても張りのある肌は、母譲りだ。 「元気に長生きできるのも遺伝かな。やっぱりうれしいね」 【写真まとめ】お茶の間の人気者になった「きんさんぎんさん」
長寿には「しゃれっ気が大事」
30年あまり前、テレビCMをきっかけに国民的な人気を集めた長寿の姉妹がいた。成田きんさんと蟹江(かにえ)ぎんさん。幸男さんは、きんさんの四男だ。 母はいつもにこにこして、誰からも愛された。自由奔放さに振り回されることもしばしばだったが、自身も長く生きて、母に教わったと感じることもあるという。 昨年9月末、栄の百貨店に着くと、幸男さんはまっすぐ1階のアクセサリー店に向かった。女性店員から小箱を受け取ると、水色の石が埋め込まれたプラチナのネックレスを胸元にあてた。 「この石の色、いいでしょう? 自分で選んだんだよ」 そうつぶやき、笑った。翌週に控えた93歳の誕生日のために頼んでおいた、自分への贈り物だった。 「長寿にはね、しゃれっ気が大事なの。それは、母も同じだったよ」
母はCMでお茶の間の人気者に
母と叔母の「デビュー」は、1992年に放映されたダスキンのCMだった。1892(明治25)年生まれの双子の姉妹が床の間の畳にちょこんと並んで座り、「きんは百歳、百歳。ぎんも百歳、百歳」とはにかむ。「きんさんぎんさん」は、またたく間に全国のお茶の間の人気者となった。 きんさんは4男7女をもうけたが、5人は生後すぐに亡くなり、3人の姉は嫁いで家を出ていた。海軍帰りの長男は「道楽者で、よく母に金を無心していた。包丁持って暴れることもあった」(幸男さん)。きんさんはそんな兄を勘当して自宅を引き払い、「おみゃあが一番優しい」と末っ子の幸男さん宅で同居していた。
“フィーバー”で右往左往
フィーバーが始まった当時、幸男さんは61歳で、定年退職の翌年だった。きんさんの「マネジャー」としての日々が始まった。 講演やイベントに呼ばれ、全国を飛び回った。台湾では高速道路を警察車両が先導した。東京・浅草で天ぷらを食べていると、どこで聞きつけたのか、外に人だかりができていた。「『触ると御利益がある』と言われてね。みんな母に触りたがるんだよ」。そんなきんさんにいつも付き添っていたのが、幸男さんと妻の菊枝さんだった。 個人情報の概念が薄く、住所もオープンだった時代。面識のない人が「会いたい。お祝いしたい」と急に自宅を訪れることもあった。それでもきんさんは断らずに受け入れてしまう。そのたびに幸男さん夫婦が右往左往した。 こだわりも強かった。取材やイベントのために菊枝さんが選んだ着物を、出かける間際になって「こりゃあ違う。あっちの出せ」と振り回されるのはしばしばだった。 言いたいことを歯切れ良く言った。名古屋市長に「あんたもしっかりやりゃあよ」と注文を付けた時には場が沸いた。「緊張して何も言えなくなったのは、天皇陛下に会った時くらい」と幸男さんは振り返る。