「大正ロマンの旗手」竹久夢二 没後90年 色あせぬ魅力
着物については、夢二がデザインしたものを呉服店に持ち込み同じものを作ってほしいという人もいて当時の人々に多くの影響を与えていたことがうかがえます。 夢二は、当時の若者たちに自身のデザインを生活に取り入れられるよう図案を雑誌で提案しています。1915年の雑誌「新少女」では、手提げ袋と本ばさみの図案を提供し、その作り方を説明しています。 ■部屋は和洋折衷のスタイルを提案 また、「新少女」の別の号では掲載された「少女の部屋の飾り方」では、 和室にガラス窓があり額絵をかけた和洋折衷のスタイルを提案しています。 説明文で、夢二は「壁の色も花瓶の色もできればすべて緑色にしたいものです」と書いています。夢二が経営していた絵草紙店「港屋」も天井や壁は緑のラシャ紙でおおわれていたそうです。 夢二の港屋は、流行の発信地だったのかもしれません。 ■夢二の提案する世界を可視化、“夢二式モデルルーム” こうした夢二の提案する世界を可視化したのが金沢湯涌夢二館の展示会「夢二式モデルルーム」、10月21日までは、金沢湯涌夢二館で、11月2日からは、同じく夢二作品を所蔵する東京・千代田区の日比谷図書文化館で開かれます。 夢二の絵に出てくる着物の柄や室内の調度品は収集品をモチーフに描かれたものが多くあります。 この夢二の遺品の鳩時計は、サトウ・ハチローの詩「コゝア色の古時計」の挿絵として使われています。 ■大衆の芸術家「竹久夢二」 絵が大衆に絶大な人気を博し、一度はあきらめた詩の世界でも、「宵待草」に曲が付き大ヒットした夢二は芸術家としての地位をゆるぎないものにしますが、特定の師匠を持たず画壇に属していないことから、いわば、「はぐれ者」のような存在でした。 金沢湯涌夢二館の川瀬千尋学芸員は、夢二の内面をこのように分析します。 金沢湯涌夢二館 川瀬千尋学芸員 「孤独な画家人生を歩んでいるという意味でも、そういった(画壇に属していない)悩みというのは普段から深かったんじゃないかなと思います。ですが、その反面芸術家としてすごく繊細でまた感受性がとても豊かな人だったということなのです。」