ドラ1入団も…屈辱の“代打要員”「あかんわ」 指揮官に落胆、異例の2軍降格直訴
中日にドラ1入団も…田尾安志氏は与那嶺要監督の評価に落胆
同志社大から中日にドラフト1位で入団した田尾安志外野手(現・野球評論家)はプロ1年目の1976年、セ・リーグ新人王に輝いた。成績は67試合、166打数46安打の打率.277、3本塁打、21打点。「前の年が該当者なしだったから、2年続けて選ばないのはよくないってことがあったんだと思います」と振り返ったように、内容には決して満足していない。特にシーズン前半までは茨の道。中日・与那嶺要監督のコメントへの落胆からのスタートだった。 【動画】ミニスカ女優が“透け透け衣装”で始球式 スラり伸びる脚「ドラユニ似合う」 1975年のドラフト会議で中日から1位指名。田尾氏は「全く頭になかった球団でした」と言うが、入団はすぐに決めた。もとより、12球団どこでも行くつもりだった。1回目の入団交渉で、中日・法元英明スカウトから提示された条件も納得いく金額だったからだ。「『駆け引きなしで一番出せる金額を言ってください』と言ったら、2800万円。『ありがとうございます』って、それで決まりました」。 実はこれ、同志社大・渡辺博之監督と事前に打ち合わせした上での“結果”だった。「交渉前に監督から『お前、どれくらいの契約金だったら、OKなんだ』と聞かれたので『ドラフト1位は3000万円じゃないんですかねぇ』と言ったんです。そしたら『これからやれるかどうかわからんヤツにそんなに出さんぞ、どれくらいまでだったらOKだ』と言われ『じゃあ2500万くらいですかねぇ』って。『それならOKするなんだな』『はい』。そんな話をしていたんです」。 法元スカウトに提示された「2800万円」は事前に決めていた最低ラインを上回るもの。難色を示すはずもなく、実にスムーズに、スピーディーに「中日・田尾」は誕生したわけだ。だが、入団してからは順調にことは運ばなかった。何よりがっかりしたのは与那嶺監督からの評価だったという。「キャンプの時だったと思いますが、僕について“アンダースロー用の代打で期待している”という監督のコメントが新聞に書いてあったんですよ」。 大学時代は2年生まで投手。3年生から投手と打者の二刀流選手になったが、守備練習はそれほどやっていなかった。その上、3年秋には左肩を痛めた。中日入り後もキャンプインの頃はまだ肩の状態は万全ではなかった。その後、回復したものの指揮官のその時点での見立ては「アンダースロー用の代打要員」だったようだ。田尾氏にはとっては屈辱だった。「そんな評価なのかと思った。(ドラフト前に)広島はポジションをあけていると言ってくれたのに……」。 そんな中、開幕1軍を勝ち取った。「でも、実際にふたをあけたら、やっぱり代打だったんですよ」。開幕3戦目の4月7日の阪神戦(ナゴヤ球場)に代打で初出場して凡退。その後も代打が続いた。4月17日のヤクルト戦(神宮)に「5番・左翼」で初めてスタメン出場したが、この時の相手先発はアンダースローの会田照夫投手。会田が降板すると、田尾氏も交代となり、その1試合だけで再び代打生活に戻った。