“位の低い家の娘だった”は違った!? 実は良家に生まれた「紫式部」⁉
紫式部は謎が多い。本名や出自にもさまざまな説がある。ここでは出自の謎に迫る! ■実は良家の出身?紫式部の出自と親族 紫式部は父・藤原為時(ふじわらのためとき)と母・藤原為信女(ためのぶのむすめ)との間に生まれた。生まれた年は記録になく、天延元年(973)など諸説ある。本名もわからない。紫式部は、宮中での呼び名(女房名)で、本来の女房名・藤式部(とうのしきぶ)をもとに、あだ名のように付けられた通称が定着したと言われる。 父・藤原為時は、地方国守を歴任する受領階層であるとともに、大学寮で学んだ学者で、著名な文人であった。『紫式部日記』には紫式部が幼少の頃、父の為時が弟(兄説もある)の惟規(のぶのり)に漢籍を教えていた時に横で聞いていた紫式部が惟規よりも早く覚えてしまい、為時が「この子が男の子ではなかったのが残念だ」と嘆いたというエピソードが記されている。当時の漢籍は男の学問であるため、脇で聞く他なかったのだが、それでも弟より先に覚えてしまったという。 父方の曾祖父に醍醐天皇の時代に活躍し、中納言に上った藤原兼輔(かねすけ)がいたが、祖父・雅正(まさただ)の代から中流貴族の地位に甘んじていた。兼輔は娘桑そ う子し を更衣として醍醐天皇に入内させ、また紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)などの歌人を庇護し、賀茂川のほとりにあった邸宅は文化的なサロンになっていた(紫式部もこの邸宅で育ったといわれる。現在の京都市上京区蘆山寺あたりか)。 一方、紫式部の母方の祖父は藤原文範(ふみのり)で、この人も学者として知られた。母方からも学究の血を紫式部は受け継いでいたのだ。しかし、紫式部の生涯の和歌を集めた『紫式部集』にも母の記載はなく、どのような人だったのかは不明である。そこから母は紫式部が幼いうちに亡くなったと推察されている。ちなみに『源氏物語』の主人公光源氏も、ヒロイン紫の上も、幼少期に母を喪っている。 紫式部には、同腹の姉(『紫式部集』によると、この姉も早く亡くなっている)と、先に触れた弟・惟規がいた。惟規は和歌に優れ、歌集『惟規集』が残されている。異腹の兄弟に、惟通(のぶみち)、定暹(じょうせん)、他に女子もいたようだ。 監修・文/福家俊幸 歴史人2024年2月号『藤原道長と紫式部』より