【独自】戒厳の夜、情報司令部会議室に「秘密組織」幹部・北派工作要員が集合
内乱企てた「陰の組織」の首脳部が続々と集結 北派工作HID要員ら38人待機 韓国軍、戒厳令50分後に非常召集命令 ムン・サンホ司令官が急いで招集解除 公式指揮系統幹部の接近を遮断
ハンギョレが複数の軍関係者に取材した内容と野党「共に民主党」が公開した情報提供内容をまとめ、非常戒厳が宣布された3日午後、京畿道城南市板橋(ソンナムシ・パンギョ)の国軍情報司令部隷下第100旅団で起きたことを再構成した。当時、第100旅団には民間人であるノ・サンウォン元情報司令官の指示で現役将軍と佐官級将校が終結していた。 非常戒厳宣布の5時間前の3日午後5時30分。ク・サムフェ陸軍第2機甲旅団長(准将)は休暇を取って、勤務地の京畿道坡州市(パジュシ)を離れ、城南市板橋の第100旅団に到着した。ク旅団長はノ・サンウォン元情報司令官が内乱を企て作り上げた秘密組織(捜査2団)の「団長」とされる人物。ク旅団長が指揮する第2機甲旅団は1979年の12・12軍事クーデター当時、ソウル都心まで戦車で出動した。 第100旅団会議室に向かうク旅団長の手には一冊の手帳が握られていた。ク旅団長は3時間前、京畿道安山市常緑区(アンサンシ・サンロック)のロッテリアで、ノ元司令官、秘密組織のもう一人の後援者であるキム・ヨングン元捜査本部長(予備役大佐)らに会った。そこでク旅団長は、ノ元司令官の指示をメモした。 「団長」に続き「副団長」も第100旅団に到着した。同日午後、反日休暇を取ったパン・ジョンファン国防部政策企画次長(准将)だ。ク旅団長とパン次長は同日、並んで休暇を取って坡州第2機甲旅団とソウル龍山(ヨンサン)国防部庁舎を出発した。ク旅団長が休暇願を出したのは前日の2日だったが、この事実を直属上官である第1軍団長には報告しなかった。2人が第100旅団段の会議室に到着すると、ムン・サンホ情報司令官と情報司尋問団長のキム・ボンギュ大佐が彼らを待っていた。時刻は午後6時だった。 その後、情報司傘下の北派工作員(北朝鮮に派遣する工作員)部隊(HID)の要員など38人が隣の会議室に集まった。 情報司所属のキム・ボンギュ大佐とチョン・ソンウク大佐が陸軍士官学校の後輩のK中佐などに指示し、数週間前に選抜した人たちだった。選抜時の条件は、屈強な体、そして出身地域が全羅道以外というものだった。 午後10時28分、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が非常戒厳令を宣布した。その時刻、京畿道果川市(クァチョンシ)では、中央選挙管理委員会付近で待機していた情報司の要員たちが、選管のサーバを奪取しようと選管の電算室に進入した。 午後11時19分、国防部はキム・ヨンヒョン長官の指示で全職員に非常召集命令を下した。同じ時刻、情報司にも非常召集命令が下された。当時、第100旅団長(職務代理)のA大佐をはじめ、「ノ・サンウォン秘密組織」に属していない旅団幹部らは、状況を全く知らないまま非常召集場所である大会議室に向かったが、会議室の前で上級部隊(情報司)所属のキム・ボンギュ大佐に制止された。キム大佐は、旅団長職務代理のA大佐を大会議室ではなく指揮統制室に行かせた。部隊幹部たちに非常召集場所として通知した会議室に指揮官が入れないという、とんでもない状況が起きたのだ。非常戒厳状況で所属部隊である第2機甲旅団と国防部に速やかに復帰すべきク旅団長とパン次長が第100旅団に集まっているのが他の人の目にとまれば、「秘密組織」の正体がばれるため、そのことを懸念した措置だった。 状況が思うようにいかなかったことを受け、ムン・サンホ司令官は非常召集発令から20分が過ぎた午後11時40分頃、召集解除命令を下した。国防部が全職員の非常招集を解除した時刻は翌日の4日午前3時47分だった。緊迫した非常戒厳状況で、情報司が国防部より4時間も早く非常召集を解除してしまったのだ。板橋の第100旅団に密かに集まっていた陰の組織が、第100旅団の幹部たちに見つかる恐れが大きいと判断したものとみられる。 4日午前1時1分、国会で非常戒厳解除要求決議案が国会議員190人の賛成で国会本会議で可決された。ウ・ウォンシク国会議長が「戒厳解除決議案可決により戒厳令宣布は無効」と宣言した。しばらくしてノ元司令官は、坡州に復帰せず板橋の第100旅団で指示を待っていたク旅団長に電話し、沈んだ声でこう伝えた。「すべて終わった」 イ・ジュビン、キム・チェウン、シン・ヒョンチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )