満州国の真実 モンゴル人中将は謎多き「凌陞事件」でなぜ処罰されなかったのか【元日本人通訳の証言】
凌陞事件
その事件は昭和11(1936)年4月に起こった。興安北分省長だった凌陞(りょうしょう)はじめ北省の主要官僚4人が、ソ連とモンゴル人民共和国に内通し満州国から独立を図ろうとした罪で突如、憲兵に逮捕されたのだ。面々は、軍トップにいたウルジンとも多岐に渡り交流があった。 事件の中心人物とされたモンゴル系ダフール族出身の凌陞は、父・貴福の代から続くホロンバイル一の名家の出だ。満州国皇帝溥儀の妹と凌陞の息子の婚約がほぼ成立しかけていたときである。 逮捕された4人はすぐに新京に移送され、関東憲兵隊司令官の東条英機少将の決裁で間もなく銃殺となった。事件にからみ多数のモンゴル系官吏が役職を追われた。 ホロンバイルに騒然とした空気が流れ、岡本さんが詰める司令部はじめ官公庁では、日本人への「面縦腹背」(岡本回顧録)の態度が鮮明になっていった。 凌陞が本当に独立を企てたか、ことの真相はいまだに闇の中だが、意のままにならない省長交代の機をうかがっていた関東軍の謀略説も根強い。新京で開かれた省長会議の席で凌陞は、満州国政府の土地政策に対しかなり率直な意見を述べている。会議を終えてハイラルに戻ったとき駅ですぐに逮捕された。モンゴル系実力者への捜索は凌陞の自白という理由でウルジンにも及んだ。
ウルジンさんもこれで終わりかと
「凌陞さんいうのはな、寺田さんがもっとも信頼していたモンゴル人のひとりだったわけです。事件は関東軍中央の判断でハイラルの特務機関は関係しておらなかったと思いますが、いまだはっきりは分かりません。もうウルジンさんもこれで終わりかと、そんな出来事でしたわ」 凌陞一派の粛清には、いまもって岡本さんも首をひねる不明な点が多く残されている。凌陞逮捕後、戒厳令下のハイラルで、寺田は通訳官の岡本さんを呼び、険しい顔で指示を出した。 日本憲兵がウルジン将軍宅に身柄拘束に向かうかもしれないので、君は常に将軍の身辺を警護し、夜は将軍宅に泊まりなさい。もし、なにかあればすぐに私に電話連絡するように。これは寺田自身にとっても危険な行動だった。 このころ、病身の寺田の右半身の自由はほとんどなく、敬礼も左手であったらしい。 岡本さんは、昼は警備軍司令部でウルジンと仕事をし、夜はウルジンの公館で就寝する生活に入り、固唾を飲んで関東軍の出方を待った。