「地味」でもすごい、北条義時の人間性とリーダーシップから学べること
■ 権力闘争の場においては「鬼」それ以外は「仏」 権力闘争の末、義時が父・時政を追放した翌月、元久2年(1205)8月のこと。時政方として見られていた下野国の御家人・宇都宮頼綱が一族郎党を率いて鎌倉に攻め込んでくるとの噂が立ちます。義時は直ちにこれを討とうしたが、頼綱は数日後には「陰謀などない」旨を表明し、頭を丸めて出家。蓮生と名乗るのです。そればかりか、鎌倉の義時の邸にまで出向くのです。義時の邸に直接出向き、叛意などなかったことを改めて訴えようとしたのでしょう。 しかし、義時は蓮生と対面しなかったのです。蓮生が出家する時に生じた髻を見ただけでした。義時の対応は、かなり厳格。(会うくらい、会ってやっても良いのでは)と思います。ではなぜ、義時はそれをしなかったのか。 頼綱が出家した裏には、下野国、最大の豪族・小山朝政がいたと言われます。頼綱討伐は、 最初、この小山朝政に命じられたが、朝政は、頼綱と縁戚関係にあることを理由にこれを拒否。叛逆に与しないことや防戦に力を尽くすべきことを誓うだけにとどまりました。頼綱は、朝政の説得により、出家したと言われています。義時がそれにもかかわらず、強硬姿勢を貫き、頼綱を討伐したら、どうなるか。小山氏は頼綱に付き、一大争乱に発展する可能性もあったでしょう。義時はそれを望まなかったということです。 父・時政を追放したばかりの政情が不安的な時に、大きな争乱を起こすには得策ではないと判断したのでしょう。とは言え、「謝罪」に来た頼綱に簡単に会ったのでは、これからも甘く見られることになる。謀反の疑いをかけられても、出家し謝罪すれば、義時殿は会ってくれる、許してくれると思われては舐められてしまうと思ったのでしょう。だから、義時は頼綱に会わなかったのだと私は感じます。 それにしても、大前提として、頼綱に叛意はあったのでしょうか。結論から言うと、私は「なかったのでは」と考えます。謀反の疑いを流して、敵を葬るということは、北条氏が度々行っていることというのが理由の1つ。2つ目は、頼綱と親密な関係にあった時政は既に伊豆に籠居していたし、頼綱だけで鎌倉を攻めるなど無謀と言えば余りにも無謀であるからです。 謀反の情報を流させたのは、義時の謀略ではなかったか。義時は頼綱を時政方と看做していた。よって、圧力をかけて、恭順しないから潰してしまおうとしたのだと思うのです。しかも、頼綱討伐を縁戚関係にある小山朝政に命じたのも陰険と言えば、余りに陰険。あわよくば、小山と宇都宮が潰し合いをしてくれたらそれが良いと思っていたはずだからです。 義時という人物は、なかなかの「政治家」だったように思います。本稿では、義時の峻烈な側面を紹介しましたが、彼は峻烈のみの人物ではありません。人が泣きついてきたら、その人の頼みを何とか聞いて叶えてやろうとする人物でもありました。もちろん、それは厳しい権力闘争や合戦の現場での話ではありません。権力闘争の場においては「鬼」の顔を見せ、それ以外では「仏」の顔を見せる。義時とはそうした武将ではなかったかと私は思うのです。
濱田 浩一郎