「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(2)~元号の世界的位置づけ~ 2000年以上続く年の数え方
まもなく平成が終わり、新たな元号の時代がやってきます。日本だけでしか使われていない時代区分ではありますが、新聞やテレビなどで平成を振り返るさまざまな企画が行われるなど、一つの大きな区切りと捉える人が多いようです。その一方で、元号に対して否定的で「西暦に統一したほうがいい」という意見も少なからず聞こえてきます。 そもそも、人はなぜ年を数えるのでしょう。元号という年の数え方に注目が集まっている今だからこそ、人がどのような方法で年を数えてきたのか、それにはどのような意味があるのかについて考えてみるのはいかがでしょうか。 長年、「歴史における時間」について考察し、研究を進めてきた佐藤正幸・山梨大学名誉教授(歴史理論)による「年を数える」ことをテーマとした連載「ホモ・ヒストリクスは年を数える」では、「年を数える」という人間特有の知的行為について、新しい見方を提示していきます。
世界共通紀年は変わるが、自国紀年は不変である
西暦という用語は、1872(明治5)年、キリスト紀年のことを表記するために、日本人が脱宗教化して創作した新用語だ。なぜ、新用語を生み出さなければいけなかったのか。それは、当時の日本がまだキリスト教禁制下にあったからである。 キリスト紀年が現在、世界の共通紀年として使用されているということは、多くの日本人の知るところである。それでは、いつ頃から、このキリスト紀年が共通紀年として使用されてきたかというと、実は、わずか200年ほど前からのことにすぎない。 世界が一つではなかった頃は、様々な紀年法が世界の各地で使用されていたのだ。 17世紀頃の世界の紀年法を見てみると、東アジアでは年号と干支による紀年法の併用、ヨーロッパではユリウス通日・創世紀年・キリスト紀年等が併用されていた。 西暦が、他の紀年法と比べ後になってから発明されたものである証拠を示しておこう。それは、5世紀前半に作成されたヒエロニムス(Eusebius Sophronius Hieronymus、347頃~420)の『年表』(Chronicon)である。ヒエロニムスは、4~5世紀に活躍したキリスト教神学者であるが、この年表にはペルシャ、コンスル(古代ローマの執政官)、マケドニア、エジプトの国王の即位紀年と並んで、4年おきに開催された古代オリンピックの年が第何回目という表記と共に併記されている。 現存するヒエロニムスの年表写本の中では、オックスフォード大学・マートンカレッジが所蔵し一般公開している9世紀に作成された写本が色彩も美しく一番綺麗である。興味のある読者は、“Merton College MS 315 - Early Manuscripts at Oxford University“で検索し、102ページ(fol.102)を見てほしい。そこには、ペルシャ紀年・コンスル紀年・マケドニア紀年・エジプトネクタネビス即位紀年・第99回オリンピック年と、計5種類の紀年が並列表記されている(拙著『世界史における時間』(山川出版社、2009)のブックカバーの裏表紙にこの年表の縮小写真を掲載している)。 ヒエロニムス自身はキリスト教徒である。にもかかわらず、キリスト紀年が使用されていないのは、キリスト教紀年法自体がまだ存在していなかった証拠だといえよう。実際、キリスト教紀年法がキリスト教会の中で広く使われ始めたのは10世紀以降。ヨーロッパにおいても、一般の人が使い始めたのは、なんと17世紀に入ってからである。 私たちは学校の歴史の授業で、西暦375年ゲルマン民族大移動は「ゲルマン民族みなごろしと暗記せよ」などと教えられたが、当時はまだキリスト教紀年法は考案されていなかった。ずっと後になってから、遡って西暦の表記が付け加えられたに過ぎない。つまり、肝心のゲルマン民族は「自分たちは、今、西暦375年を生きている」という意識を持っていなかったのだ。