蒙古襲来750年:モンゴル帝国はなぜ極東の島国・日本を攻めてきたのか
内憂外患
日本の外交権限は当時、一義的には朝廷にあるとされていたが、幕府の関与なしに対処方針は決められなかったはずだ。ところが、北条支配の鎌倉幕府は内部に問題を抱え、思わぬ「外敵」の登場に十分な対応ができなかったとみられる。 北条氏は唯一のライバル、三浦氏を滅ぼし、絶頂期を迎えたのも束(つか)の間、内紛が起きてしまう。5代執権の北条時頼には時輔(ときすけ)という長男がいた。だが、側室の子という理由から、正室の子である弟の時宗が執権(※1)の座を引き継ぎ、「ねじれ」が生じた。元から国書が届いたのと同じ1268年のことだった。 その後は元との緊張関係が一挙に高まった重要な時期だったにもかかわらず、時宗は異母兄の時輔が恨みを抱いていると警戒。72年には時輔を討ち、北条家内の反時宗派も一掃した。「いろいろな勢力がひしめき合っていた幕府も、これ以降は時宗ら得宗(北条家の直系)の権力が強化された」(鎌倉歴史文化交流館の大澤泉学芸員)。幕府は迫り来る元の脅威にようやく態勢を整え始めた。異国警固番役を設け、九州に所領を持つ御家人らに九州北部の警戒に当たらせたのである。 一方のフビライはそのころ、属国の高麗に対し、軍船の建造を命じていた。戦いは間近に迫っていた。(第2回に続く) (※1) 時宗は幼少だったため、時頼の後は中継ぎとして長時(6代)、政村(7代)が執権に就き、これを経て時宗は8代執権となった。
●道案内
・鎌倉歴史文化交流館:JR横須賀線・鎌倉駅西口から徒歩10分。毎週木曜には、学芸員が午前10時から展示解説のギャラリートークをしている。日曜・祝休日は休館。観覧料は一般400円、小・中学生150円。 ・円覚寺:JR横須賀線・北鎌倉駅そば。1282年、執権・北条時宗が無学祖元禅師を招いて開山した禅寺。敵味方に関係なく、蒙古襲来の殉死者を弔う目的があった。「鎌倉五山」の第二位に当たる。
【Profile】
持田 譲二(ニッポンドットコム) ニッポンドットコム編集部。時事通信で静岡支局・本社経済部・ロンドン支局の各記者のほか、経済部デスクを務めた。ブルームバーグを経て、2019年2月より現職。趣味はSUP(スタンドアップパドルボード)と減量、ラーメン食べ歩き。