蒙古襲来750年:モンゴル帝国はなぜ極東の島国・日本を攻めてきたのか
また、「黄金の国・ジパング」観が日本に触手を伸ばした理由との説もある。13世紀に生まれたベネチアの商人マルコ・ポーロはアジアに進出し、『東方見聞録』を著わしたことで知られる。マルコはフビライに仕えていた時期があり、「日本は黄金の島といえるほどに金銀を産出する、といった誤った情報を、フビライは確固として信じ」ていたと、作家の司馬遼太郎は『街道をゆく11 肥前の諸街道』(朝日文庫)の中で記している。 広大な版図内で交易が活発になるにつれ、元では貨幣制度が発達していった。「紙幣の濫発によるインフレを鎮静させるには国家が銀を大量に獲得せねばならず」、日本を征服するのが手っ取り早いと考えたと司馬は推測する。
親交か侵攻か
元を中心とした東アジアの国際情勢に当時の日本は巻き込まれようとしていた。鎌倉幕府や朝廷は、思いもよらなかったのではないか。 1268年にはフビライ名で日本に国書「蒙古国牒状」が届いた。 「天帝の慈しみを受ける大蒙古国皇帝(フビライ)が、書簡を日本国王に差し上げる。私の考えでは、昔から小国の君主は、国境を接していれば、ひきつづき意志を通じて友好につとめてきた。(中略)高麗は私の東の属国である。日本は高麗に近接し、国の初め以来、時には中国とも通交してきた。だが、私の治世には一度も使いを派遣してよしみを結んだことはない。(中略)今後は互いに訪問することで友好を結び、親睦を深めることを願うものである。また、聖人(皇帝)は世界全体を一つの家とするものである。互いによしみを通じなくては、どうして一つの家だといえよう。軍事力を用いようとは、だれが好んでするだろうか。(『詳説 日本史史料集』=山川出版=より抜粋)」 この国書は、元には日本と友好関係を結びたい意思があるようにも読める。その半面、元が朝鮮半島の高麗を攻めて属国化したことをさりげなく伝えるとともに、求めに応じなければ日本へ武力行使も辞さない構えを示している。 元の使者から国書を受け取った幕府は判断を朝廷に託したが、朝議の結果、返書は出さないこととなり、使者も引き返させた。服部氏は「日本の主な海外情報源は南宋から渡ってくる禅僧だ。彼らは(侵略者の)元について、よくは言わなかったのだろう。日本としても南宋と手を組んでいるつもりだった」とみる。 一方、アジア史の専門家の間では、元の国書にしては「実に穏やかな文面である。一種の挨拶状に近い」(杉山正明著『モンゴル帝国の興亡(下)』、講談社現代新書)と受け止められている。国書を無視した態度は「普通の外交ならば、向こう(元)は面白くないはず。執権の北条時宗が使者を出していたら、事態はどうなったかは分からない」と服部氏は言う。幕府は、元の硬軟織り交ぜた姿勢の意図を慎重に探るところまで考えが及ばなかったようだ。 ひょっとしたら戦争は起きずに済んだかもしれないが、「外交」経験のない幕府には限界があった。元は計6回も国書や使者を送ってきたのに対し、幕府は一度たりとも返答をしなかった。そして、1271年には日本侵攻の最後通告が送られてきたのである。