南アW杯R16パラグアイ戦PK負けは、高地でボールが浮いたのが「運命の分かれ目」だった【松井大輔が激白】
【流浪のファンタジスタ 松井大輔が激白】#3 2010年南アフリカW杯では全4試合に先発し、16強入りの原動力となった。ラウンド16のパラグアイ戦では自らのミドルシュートがクロスバーを直撃する惜しいシーンもあったが、チームは得点を奪えずに最後はPK戦にもつれて敗戦。日本はそこから3大会を戦い、16強の壁を越えられないままでいる。 ❤三笘薫と美人妻のほっこりショット❤ カメラが激写したラブラブツーショット! 「今の日本はサイドアタッカーの宝庫。三笘(薫=ブライトン)を筆頭に良いタレントがいる。そのストロング(ポイント)を生かすことが大事」と先駆者は改めて強調する。 ◇ ◇ ◇ 南アW杯の日本はカメルーンに勝った後、2戦目でオランダに苦杯を喫したが、デンマークに3-1で勝利し、2002年の日韓W杯に次いで2度目の16強入りを果たした。そして迎えたパラグアイ戦。両者とも守備的な戦いを見せる中、前半22分に決定機が訪れる。 右SB駒野友一のクロスからのこぼれ球を拾った背番号8が、右足でややカーブをかけてシュート。これが少し下にズレていたら、日本は準々決勝で強豪スペインと激突していたし、駒野がPKを失敗して号泣することもなかっただろう。 「パラグアイ戦で点を取れなかったことは、今考えても一番悔しいですね。僕自身は逆のサイドネットを狙ったつもりだったけど、高地でボールが浮いて落ちなかった。まさに『運命の分かれ目』だったと思います。PK戦に突入した時は『どっちに転んでもしょうがない』と覚悟を決めていました。誰が外すか分からないPKをコマちゃんが失敗したけど、僕らは誇りを持ってタフに戦えた。そんな気持ちでコマちゃんの肩を抱いた記憶があります。(監督の)岡田(武史=J3・FC今治会長)さんも、よくあそこまで壮絶な重圧を引き受けた。今、自分が指導者側に立ってみると、改めて凄いと感じます」 当時の日本代表は、本田圭佑や長友佑都(FC東京)ら若い世代を川口能活(磐田GKコーチ)や中村俊輔(横浜FCコーチ)らが支える形になっていた。 「能活さんも俊さんもあまり出番がない中、僕らを献身的にサポートしてくれました。特に俊さんは、同じポジションだった僕に声をかけてくれたり、水やタオルを持ってくれたりした。『マッチアップする選手の特徴はこうだ』『右から崩した方がいい』とアドバイスもくれて、勇気を持って挑めましたね。ああいった先輩がいたからチーム全体が一丸となって戦えた。それは僕らの財産でしたし、その後の代表にも引き継がれていると思います。俊さんは今、JFA公認のS級ライセンス講習に通っているので近い将来、監督になるでしょうけど『松井はコーチにはしない』と言われています(苦笑)。でも僕は呼んでもらえるように頑張りたい。次世代を担う人材を育てることが僕たちの大きな仕事だと思います」 そう語る松井は引退後に横浜FC、浦和レッズで育成年代を定期的に教える立場になった。指導者目線で見ると、今の日本サッカー界はサイドアタッカーの宝庫という。 「三笘や伊東純也(スタッド・ランス)はもちろんのこと、パリ五輪世代にも横浜FC時代の後輩の斉藤光毅(スパルタ・ロッテルダム)やJ1で売り出し中の平河悠(町田)のようなタレントがいる。光毅の僚友の三戸舜介もいいですね。彼を見ていると三浦淳寛さん(サッカー指導者・元神戸スポーツダイレクター)のようなシュートの蹴り方をする。センスがあると思います。そういう人材をうまく生かして、強い日本をつくっていければ理想的。僕も貢献していきたいと思います」 自身の代表経験を最大限に還元する覚悟を口にし、南アW杯16強入りの原動力を「泥くさく勝ちを追求し続けたこと」であると言い切った。 (取材・構成=元川悦子/サッカージャーナリスト) ▽松井大輔(まつい・だいすけ)1981年5月11日、京都府生まれ。43歳。2000年に鹿児島実業高からJ京都入り。フランスのルマンを皮切りに6カ国.13クラブを渡り歩いた。YSCC横浜ではフットサルチームにも所属してFリーグに出場。「二刀流」をこなした。04年アテネ五輪出場。10年南アフリカW杯ベスト16。24年4月から横浜FC、浦和の育成部門でコーチを務める。