石破茂は、なぜ自民党内で嫌われるのか? 安倍晋三、田中角栄…党の「カリスマたち」との「意外な関係」
総理にしたい国民アンケートは常に1位だが、自民党内での評判はイマイチ……そう言われ続けてきた男・石破茂が今回も総裁選に立つ。いったいどうすれば、石破は総裁選で勝てるのか。 【一覧表】小泉進次郎内閣、これが「驚きのメンバー」だ 永田町取材歴35年。多くの首相の番記者も務めた、産経新聞上席論説委員・乾正人による、「悪人」をキーワードにした政治評論。まさかの岸田首相退陣により揺れる自民党総裁選、有力候補者たちを独自の目線で切る。 ※本記事は、乾正人『政治家は悪党くらいがちょうどいい!』(ワニブックス刊)より一部を抜粋編集したものです。文章内の敬称は省略させていただきます。
世論調査では支持率が
本人は否定するだろうが、石破茂という政治家は、相当屈折しているとはいえ、「善人政治家」の範疇に入る。とにもかくにも悪いことができないのである。 危ない橋を渡って政治資金をつくるなど、「悪事」ができていれば、とっくに総理大臣の椅子に座っていただろう。 彼は、産経新聞でも朝日新聞であっても、どんな報道機関が実施した世論調査でも「次の首相(自民党総裁)にふさわしい人」ナンバーワンに輝いてきた。 時事通信が令和六(二〇二四)年七月五日から八日まで対面で実施した世論調査によると、「次の自民党総裁にふさわしい自民党国会議員」第一位になった石破の支持率は二二・一%と元環境大臣、小泉進次郎の二倍以上の人気を集めた。ちなみに人気ベストセブンは次の通り。 1 石破茂 二二・一% 2 小泉進次郎 一〇・九% 3 菅義偉 五・二% 4 河野太郎 五・一% 5 高市早苗 四・〇% 6 岸田文雄 三・二% 7 上川陽子 三・一% (人物の前の数字は順位) 石破は、二位以下に圧倒的な差をつけているだけでなく、自民党支持層に限っても二六・二%と、二位の小泉(一〇・七%)を大きくリードした。
原点は政治改革
なぜそれほどの国民的人気があるのか。 自民党が野党時代の平成二四(二〇一二)年の総裁選で、党員票で安倍晋三をリードしながら決選投票で敗れた彼への判官贔屓もある。 本人に言わせれば、「知名度が高いことと、内閣の外にいるので比較的自由に発言できるから」ということになるが、もちろんそれだけではない。 ここからは、筆者のまったくの私見となる。 私は昭和六一(一九八六)年、新聞記者になったが、彼も昭和六一年の衆参同日選挙で初当選した。リクルート事件が猖獗を極め、政治改革の必要性が強く求められていた平成初頭には、「政治改革を実現する若手議員の会」の中心的存在として活躍していた。私も平成元年六月に念願の政治部に配属され、政治改革運動を中心に取材しただけに、石破ら若手議員たちを勝手に「同期の桜」と思い込んでいる。 「政治改革を実現する若手議員の会」は、元官房長官、後藤田正晴を本部長として自民党に設置された政治改革推進本部の別動隊というべき存在から出発し、衆院への小選挙区比例代表制導入に大きな役割を果たした。メンバーも渡海(とかい)紀三朗、岩屋毅、簗瀬進ら血気盛んかつ理論派の議員が多かった。 「三つ子の魂百まで」とはよくいったもので、彼らの共通点は、「善人」である。旧来の利益誘導型政治から脱却するためには、選挙制度改革をはじめとする政治改革を断行せねばならない、という信念があった。特に石破は、政治改革だけでなく、安全保障政策にせよ、憲法問題にせよ、自らが信じる「正論」を展開してきた。彼は常に「自分が正しいと思うことを自由に述べられなくては、政治家になった意味がない」と語っている。 そんな自民党議員らしからぬ善人さが、国民から支持されている大きな理由ではないか。 石破は生まれながらの「二世議員」というわけではない。 鳥取県知事から参院議員に転じ、在職中に亡くなった石破二朗を父に持つが、生まれたとき、父・二朗は建設事務次官だった(当時四十八歳)。 ほどなく二朗は鳥取知事選に出馬、当選するが、このレールを敷いたのが、田中角栄だった。参院議員に転じた二朗が昭和五六(一九八一)年に急死した直後、石破に「お前が跡を継げ」と厳命したのも角栄だ。 慶應義塾大学を卒業後、三井銀行でサラリーマン生活を送っていた石破には、青天の霹靂だったが、「意気に感じるところがあった」と銀行を辞める決意をする。 角栄が主宰する木曜クラブの事務局員となったのは、昭和五八(一九八三)年。その三年後に衆院鳥取全県区(当時の定数は四)に出馬するのだが、すんなりと出馬できたわけではなかった。 そもそも父は参院議員で、当時二十歳台だった彼には参院選の被選挙権さえなかった。 狙いを衆院鳥取選挙区に替えても田中派からは現職の衆院議員が立候補しており、彼の立場は危ういものだった。 結局、中曽根派(政策科学研究所)幹部の渡辺美智雄が面倒をみていた現職議員が引退する地盤を引き継ぐ形で出馬できることになり、田中派から「里子」に出されることになったのだ。 当選後は、政科研に所属したが、「本籍・田中派・現住所・政科研」と揶揄された。それゆえ派内では浮いた存在で、のちの離党劇につながっていく。