【事故から19年】「4月25日はやっぱり特別な日」 遺族がJR福知山線脱線事故で遺された“記憶”を繋ぐ一方、JR職員への研修には課題
「事故のすごさ、悲惨さをまず感じてほしい」 2005年4月25日、JR福知山線脱線事故。乗客106人と運転士が亡くなり、562人が重軽傷を負いました。あれから19年。事故を起こした車両はその後、JR西日本の運転士ら、社員にも公開されることはありませんでした。事故の風化が懸念されるいま、記憶を繋ぐにはどうすればよいのでしょうか。
兵庫県宝塚市に住む、原口佳代さん。原口さんは19年前の事故で、夫の浩志さん(当時45歳)を亡くしました。 (遺族の1人・原口佳代さん) 「1年経とうが19年経とうが、さみしいのはさみしい」 「4月25日はやっぱり特別な日で」 「事故の前に本当に戻れるもんなら戻してほしいしね」 大阪市内の会社に勤めていた、浩志さん。少し遅めに家を出て、普段は4両目に乗っていましたがあの日は、先頭車両でした。
(記者リポート) 「どのような状況だったかわかりませんが、電車が線路脇のマンションにぶつかり、その間に挟まった人たちをいま救出しています」 「ご覧のようにマンションの一階に完全に車両がめりこんでしまっています」 兵庫県尼崎市で、快速電車がカーブを曲がりきれずに脱線。時速116kmで、線路脇のマンションに突っ込んだのです。1両目はマンションに衝突し、そのあと2両目が突っ込んだため1両目と2両目は大破。多くの乗客が亡くなりました。 死者107人(乗客106人と運転士1人)、562人が重軽傷を負う大惨事になりました。
事故調査委員会によると原因は、運転士が列車の遅れを取り戻そうとしてブレーキをかけるのが遅れたこと。この事故で「日勤教育」と呼ばれる懲罰的な指導や、自動列車停止装置(ATS)の整備の遅れなど、JR西日本の組織的な問題が明らかになりました。 事故の惨状が生々しく刻まれた車両は、1両目から4両目は兵庫県姫路市内で、5両目から7両目までは大阪市内で保管されています。JR西日本は、2011年から希望する遺族や負傷者に車両を公開。10年ほど前に原口さんも訪れました。