肋骨を折りながらもロケに出たミニスカポリス時代 無敵だった「ボタン飛ばし」で唯一黒星を喫したグラビアアイドルとは
「頑張れ、かおりポリス」
――どのような修行ですか。 すごく重い金のボタンをシャツに縫い付けてそれを飛ばして、5メートル先のドラの鐘を鳴らす特訓をしているという設定でした(笑)。他のポリス仲間たちが、心配して来てくれ、「頑張れ、かおりポリス」と応援してくれたその時、ボタンが思いっきり飛んで、5メートル向こうの鐘に当たり、「ゴーン」と鳴ったりしました。 ――その後はどのような展開になりましたか。 次の週にもう1回戦ったら、私が勝ちました。全部が長いコントのようでした(笑)。 ――なるほど。ほかに当時、印象に残っていることはありますか。 あの頃は、世の中で「ミニスカポリス」をモチーフにした飲み屋さんがすごく流行っていて、みんなポリスの格好をして、お酒を注いだりしていたんです。番組の演出だったテリー伊藤さんが、その噂を聞きつけて、「今日の撮影終わりにみんなで行ってみないか?」となったんです。 ――実際、行ってみたら、どうでしたか。 私たちよりも短いスカートを穿いたポリスが水割りを作っていました。ウイスキーを棚から取ったりする時に、スカートが短すぎて、パンツが丸見えでした。私たちもミニスカポリスの衣装で行ったので、テリーさんが「店内がミニスカポリスだらけで面白いな」と言って、楽しんでいました。 ――番組当初はどのような様子だったのですか。 27年前の話になりますが、お台場の海沿いの空き地のような場所で撮影していたんです。木と木の間を入っていくと現れる秘密基地みたいな所に、ぽつんと1つの小屋が立っていて、そこで撮影をしていました。雪が降っていても水着で挑むコーナーもあるんです。海沿いだし風が吹き抜けると、本当に寒かったです。思いっきり体を張って、すっごい頑張っていたと思います。
何回もやり直しに……
――過酷なロケもありましたか。 スノーボードのロケに行ったら、転んで、肋骨を骨折してしまったんです。北海道から東京に帰ってきた時には夜遅く、病院がやっていなかったので、マネージャーさんと相談して、一旦家に帰って寝ることにしたんです。次の朝、迎えが来て病院に連れて行ってもらえるかと思ったら、ミニスカポリスの現場でした。 ――治療しないまま現場だったんですね。 そうです。私は、痛さから考えて、折れていると思っていました。現場で、マネージャーさんは「大原は肋骨を骨折して、今日は声が出にくいです」と言ってくれたんです。でも、オープニングの撮影で、「さあ、始まりました、ミニスカポリス」と声を張って言わなければならず……。 ――肋骨を骨折していたら、声を張りにくいですね。 すごく厳しかったです。ミニスカポリスって、だいぶふざけているように見えますが、全部台本があって、それを当日にもらって、現場で場当たりをして始める。オープニングから、テンションを上げていかないとNGになって、何回もやり直しになるんです。「大原、肋骨が折れているかもしれないけど、もう1回、頑張れ。はい、もう1回」みたいな感じでスタッフさんも演者も真剣に挑んでいました。 第5回では、44歳の時に「大原かおり」から「大原がおり」に改名した時のことを振り返る。 ■大原がおり 1976年、東京都八王子市出身。1997年、3代目ミニスカポリスに就任。CM、バラエティ番組などで活躍する。2005年、ドッググッズブランド「Otty(オッティ)」を設立。 デイリー新潮編集部
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