名古屋にあるものを生かしたい「やっとかめ文化祭」
オープニングステージで華麗な舞いを披露する芸妓 THEPAGE愛知
江戸時代に、徳川御三家の筆頭として尾張徳川家が繁栄する中、独自の文化・芸能が発達した名古屋。現代は、トヨタ自動車に代表されるように、産業都市のイメージが強い名古屋で、まちじゅうを舞台にした都市文化の祭典「やっとかめ文化祭」が10月30日からはじまった。今回で3回目の開催となる同祭典を担当する名古屋市役所文化振興室の吉田祐治さんは「名古屋にあるものをもっと生かしたい」「人を惹きつける町にしたい」という思いを胸に、この祭典への意気込みをみせる。
文化や観光が苦手な名古屋からの脱却
──3回目の開催ですが、どういった経緯でもともと発案されたのですか? 吉田:まちの個性というものが、今まで以上に大事になった時代背景と、オリンピックの開催やリニアの開通を目前に控え、外国からの観光客が増えている中で、このまちにしかない歴史を大切にし、その中ではぐくまれた文化を大切にしていくことが重要になってきています。 どちらかというと名古屋は文化も観光も苦手な分野で、産業が中心と思われてきた都市ですが、人口減少社会の中で、産業中心の都市から変わることが必要な時期が来ています。 この街がもっている文化をしっかりと磨き、まずはこの街のみんなで楽しんで、そこから外に広げることで、観光、人を惹きつける町にしたいと考えています。観光の市場が成熟し、ニーズが多様化している中で、名古屋にあるものをもっと生かしていけたらと思います。
喫茶店文化もフィギュア大国も原点は江戸時代!?
──「名古屋は芸どころ」と言っても、いまいちピンと来ないかと思いますが? 吉田:江戸時代、尾張徳川家が繁栄をしていたため、名古屋では芸事やお茶(茶道)が盛んだったと言われています。そのお茶好きが、今の喫茶店文化につながっていると思いますし、実は名古屋は舞踊や琴などの習い事が盛んです。江戸時代には、町人の娘さんも三味線が弾けたと言われていて、現代の習い事が好きなことや、フィギュアスケートが強いのにもつながっているのでは、と思っています。 明治時代に、名古屋から大勢の芸者が東京へと進出し、最盛期には東京の芸者の6割ほどが名古屋、東海地方出身者で占められていたといわれています。また、狂言の和泉流の御家元は、もともと名古屋が発祥だったのですが、明治時代に拠点を東京へと移したことは、あまり知られていないですね。