再起へ、型紙の技つなぐ能登の和更紗職人
2024年は飛躍の1年になるはずだった。大みそかは、2月に控えた東京・銀座での個展に向けて作品づくりに没頭した。元日も夕方から作業するつもりでこたつでくつろいでいると、激しい揺れに襲われた。 立つことができず、はいつくばりながら外に出た。電柱が倒れ、家々の窓ガラスが割れている。「やっと軌道に乗り始めたところだったのに……」。石川県輪島市の染色職人・中野史朗さん(50)は、頭が真っ白になった。 ◇ 千葉市出身。高校卒業後、建築事務所に就職したが、パソコンを使ったデジタルの作業がなじまなかった。ものづくりの仕事を求め、27歳で東京の染工房の門をたたいた。2か所目の染工房で働き始めた頃、「和更紗(わさらさ)を復興できないか」との話が持ち上がった。 更紗は華やかな模様などが染色された布のことで、インド発祥とも言われる。日本製を和更紗といい、何枚もの型紙を重ねて細かい模様を多色染めする。江戸時代に人気を博したが、安価な染色技術が広まったことで衰退した。 中野さんは、絶滅寸前とも言える和更紗をつくるのに欠かせない型紙を求め、東京からバイクを走らせた。行き先は、三重県鈴鹿市白子(しろこ)。和更紗の型紙として使われてきた「伊勢型」の産地だ。 ◇ 運命の出会いは偶然だった。「型紙は誰がどうやって作っているんですか」。伊勢型紙の資料館で、受付の女性にたずねたところに現れたのが、内田勲さん(80)だった。 内田さんは、わずかに残る伊勢型紙職人の一人。「まだ和更紗を作ろうなんて人がいるとはね。とっくに終わった染め物と思っていたよ」。来訪の目的を伝えると、驚かれた。 本来、型紙彫りと染め物は分業だ。けれども、こんな素晴らしい技術を途絶えさせるわけにはいかない。内田さんの工房に見学に行くと、気持ちを見透かされたように言われた。「お前、習いにくっか?」 ◇ 和紙を加工した紙に描かれた文様や図柄を、彫刻刀で丹念に彫り抜く。月1回、東京から白子に通い、型紙づくりの技を手取り足取り教わった。謝礼を渡すと、「そんなつもりじゃない」と叱られた。「俺の持っている技術、伝えたいと思っていた技術を教えてほしいというやつが現れたことがうれしいんや」 染色の技術も、内田さんに紹介された江戸小紋師の藍田正雄さん(故人)のもとで磨き、2014年に独立。「いつかは落ち着いた場所でものづくりがしたい」。夢を実現する場所として選んだのが、伝統工芸が息づく輪島市だった。 ◇ 独立後、苦しい時期もあったが、地道に制作を続けるうちに徐々に注文が舞い込むようになった。「今年こそ」。そう願った元日に待っていたのが震災だった。 自宅が全壊、隣接する工房も被害を受けて作業は中断。銀座の個展も中止になった。注文を断る電話をかけると予想外の言葉が返ってきた。「いつになってもいい」「遅くなっても待ってるよ」。頭をよぎった「廃業」の文字を打ち消し、6月、みなし仮設住宅のある金沢市内の雑居ビルに仮工房を設けた。 9月、再び災害が能登を襲う。豪雨で堤防が決壊し、かつて住んでいた街の中心部まで土砂が流れ込んだ。いても立ってもいられなくなり、車に支援物資を載せて輪島市に向かい、泥かきをした。往復6時間の運転中、葛藤した。「伝統工芸なんて、ちっぽけな仕事だ」 ◇ それでも頭に浮かぶのは、これまで支えてくれた人たちの顔だ。このまま和更紗をやめたら、技を継承してくれた先輩方を裏切ることになる。待っていてくれる人もいる。 いま再び、仮工房を開く準備を始めた中野さんは、かつての自分を思い出す。いつか、たずねてくるかもしれない。あの時、内田さんの前に現れ、「教えてほしい」と訴えた自分のような若者が。その時にしっかりバトンを渡せるように――。
【取材後記】 膝下まで雪が積もる日だった。1月、三重から出張し、被災地を取材した時に中野さんと出会った。2次避難に向けた家の片付けで忙しかったはずだが、手を止めて和更紗について教えてくれた。染色への情熱を持ちながらも、震災を経て揺らぐ価値観、お世話になった人々への感謝……。葛藤しながらも、前に進もうとする姿に胸が熱くなった。中野さんのものづくりは、きっと被災地の人たちにも勇気を与えるはずだ。(松岡樹 27歳)